戦後80年を迎えようとする中、広島と長崎に投下された原子爆弾の記憶は、風化が懸念される課題となっています。特に、戦争の実態を伝える上で、被爆者の生の声は何よりも重い意味を持ちます。しかし、その体験を長く語ることができなかった人々もいます。元プロ野球選手の張本勲氏もその一人です。彼が半世紀以上の沈黙を破り、被爆体験を語り出したきっかけは、「原爆がどこに落ちたか知らない」という現代の若者の声でした。本記事では、張本氏の壮絶な体験と、彼が語り続ける理由に迫ります。
「戦争を知らない」世代への危機感:沈黙を破ったきっかけ
広島出身の元プロ野球選手である張本勲氏(85歳)は、東映や巨人などで活躍し、7度の首位打者を獲得、日本プロ野球史上初の通算3000本安打を達成した球界のレジェンドです。引退後は解説者としてもその歯に衣着せぬコメントで多くのファンに親しまれてきました。しかし、彼の人生には、60歳を過ぎるまで誰にも語ることができなかった壮絶な経験があります。それは、80年前の1945年8月6日に広島で体験した原子爆弾投下という「あの日」の記憶です。
張本氏は、当時の光景を「まず人肉の臭い、すごく臭い。何百人、何十人焼けただれていますから」と語ります。原爆が広島に投下された瞬間、爆心地周辺の地表温度は3000度を超え、爆風と熱線が町を焼き尽くし、1945年末までに約14万人もの尊い命が犠牲となりました。当時5歳だった張本氏は、まさに紙一重で生き延びた被爆者です。「友達と遊ぼうと思って、(自宅の)引き戸をひいて出た途端、本当にピカーと光ってドーン。これが広島でいうピカドンです」と、その瞬間を鮮明に記憶しています。さらに、「絶叫、苦しいんでしょうね。叫び声、辛いんでしょう。私たちの前、何十人も走って近くのどぶ川に飛び込んだ。全部死んだそうです」と、阿鼻叫喚の地獄絵図を証言します。半世紀以上もの間、この凄まじい経験を胸の内に秘めてきた彼が、ようやく語り出すことを決意したのは、あるテレビ番組がきっかけでした。「(テレビで)『戦争を知らない』『(原爆が)どこに落ちたの?』という人がいたんです」という若者の声に触れ、歴史の継承に対する強い危機感を覚えたといいます。
元プロ野球選手・張本勲氏が自身の被爆体験を語る様子
半世紀以上語れなかった理由:被爆者への差別と葛藤
5歳で広島原爆を経験した張本勲氏が、なぜ半世紀以上もの間、その被爆体験を誰にも語ることができなかったのでしょうか。その背景には、被爆者が抱えてきた深い苦悩と葛藤がありました。張本氏は、自身の経験を語ることに対して、「原爆症を持ってる男だと思われるのは嫌だし。うつりはしないけれど、子どもの頃、差別されたところを見ているから。言わないほうがいいだろうと」と述べています。
当時の社会では、被爆者に対する誤解や偏見が根強く存在し、「原爆症」が遺伝するといった誤った認識から、結婚や就職において被爆者が不当な差別を受けるケースが少なくありませんでした。張本氏自身も、幼少期にそうした差別を目の当たりにしてきたため、自身の被爆者としての事実を明かすことで、不利益を被ることを恐れていたのです。プロ野球選手という注目される立場であったがゆえに、その影響をより強く懸念したのかもしれません。しかし、若い世代に戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさを伝えたいという強い思いが、長年の沈黙を打ち破る原動力となりました。
語り継ぐ責任:平和への願いを次世代へ
元プロ野球選手・張本勲氏が自身の被爆体験を語り始めたことは、単なる個人の証言に留まらず、戦後80年を前にした現代社会にとって極めて重要な意味を持ちます。彼が半世紀以上もの間抱え続けた「被爆者への差別」という苦悩を乗り越え、若い世代の「戦争を知らない」という声に呼応したのは、二度と同じ悲劇を繰り返さないという平和への強い願いがあるからです。彼の言葉は、原子爆弾の持つ破壊力や戦争の不条理を、データや文献だけでは伝えきれない、生々しい人間の痛みを伴って後世に伝えています。被爆者の証言は、歴史の事実を後世に語り継ぎ、平和教育を推進する上でかけがえのない財産です。張本氏の勇気ある行動が、戦争の記憶が風化することなく、未来へと受け継がれていくことを願うばかりです。
参考文献
- TBS NEWS DIG Powered by JNN. (最終閲覧日). きっかけは「原爆がどこに」の声 元プロ野球選手・張本勲が語れなかった被爆体験【報道特集】. https://news.yahoo.co.jp/articles/ea985555e82df04172deb7dc0d23c7d5c238a6ac