戦後の日本は、極度の食料不足と社会の混乱が蔓延し、国民は日々の生活を繋ぐことに必死でした。この極度の不安と脆弱な心理状態を悪用し、甘言巧みに女性たちを誘い出し、残忍な犯行を繰り返した男、小平義雄。彼の犯行は、当時の社会に深い闇を投げかけ、多くの人々に恐怖と絶望をもたらしました。警視庁の執念深い捜査によって、想像を絶する事件の全貌が徐々に明らかになっていく過程を追います。この一連の事件は、ただの凶悪犯罪に留まらず、戦後の混乱期が育んだ人間性の歪みを映し出す、痛ましい事例として歴史に刻まれています。
迷宮入り寸前の凶悪事件:小平義雄の足跡と逮捕への道
昭和20年8月6日、17歳の少女A子さんが忽然と姿を消しました。彼女がその日に会う予定だった人物が「小平義雄」という名であることが判明すると、警視庁捜査第一課は直ちに全国の各署に対し、彼の所在捜査を指示しました。捜査は迅速に進展し、渋谷区羽沢町に妻子と居住する42歳の同姓同名の男が浮上します。この男は高浜町の米軍兵舎内で雑役夫として働いており、さらに驚くべきことに、過去に殺人及び窃盗の前科を持つ人物でした。同僚たちの間では、彼の女癖の悪さから「助平(すけべい)」というあだ名で知られ、その評判は定着していたと警察庁の資料は伝えています。
小平義雄は栃木県日光町出身で、小学校卒業後、工員見習いを経て19歳で海軍横須賀海兵団に入隊したという異色の経歴を持っていました。昭和2年から3年にかけての山東出兵では海軍陸戦隊員として参加し、その戦功により昭和4年には勲八等旭日章を受章、三等機関兵曹として除隊しています。しかし、その後の彼の人生は転落の一途を辿ります。毎日新聞社刊の『昭和史全記録』によれば、昭和7年には神官の娘と結婚するも、わずか4ヶ月で逃げられ、逆恨みから妻の実家に押し入り、その父親を鉄棒で殴殺し、さらに6人を傷害するという凶行に及びました。この事件で彼は懲役15年の刑に服しましたが、二度の恩赦により昭和15年に仮出所を果たし、昭和19年には再婚しています。事件当時、彼は港区の旧海軍経理学校跡地にあった米軍の洗濯工場に勤務していました。「元主計中尉」という虚偽の肩書きを用いていましたが、進駐軍関連で働いているという点は事実でした。
この小平がA子さんの失踪に深く関与していると確信した捜査員は、昭和21年8月19日、彼の自宅を訪れました。当初、小平は捜査本部のある愛宕署での取り調べに対し「A子さんとは会っていない、何も知らない」と容疑を否認し続けました。しかし、自宅捜索で押収された一本の洋傘がA子さんのものであることが決定的な証拠となり、その事実を突きつけられると、ついに観念した小平は自供を始めます。
小平の供述は、その手口の巧妙さと冷酷さを物語っていました。彼は「給金の良い高浜町の米軍兵舎の洗濯所雑役婦の仕事を紹介する」と甘言でA子さんを欺き、安心させた上で、8月6日午前9時30分に品川駅東口に呼び出しました。地理に不案内なA子さんをいいことに、芝公園内へと誘い込み、そこで乱暴に及んだ後、絞殺。さらに、身につけていた衣類を剥ぎ取り、死体を笹薮に運び捨て、衣類とパナマ製ハンドバッグを含む4点を奪い去りました。この自供を受け、捜査本部はA子さんの遺体近くで発見された身元不明の白骨死体も小平の犯行であると確信を強め、さらに類似事案の洗い出しに着手することになりました。
小平義雄が死刑判決を受け、法廷を退廷する様子(1947年6月18日)。戦後日本を震撼させた連続殺人犯の姿。
結び
小平義雄による一連の凶悪事件は、戦後の混乱期における社会の脆弱性、そして人間の心の闇がどのように増幅されうるかを示す痛ましい事例となりました。食料確保という切実なニーズに付け入り、女性たちを餌食にした彼の行為は、当時の社会状況が生み出した悲劇であり、同時に犯罪者の異常な心理状態を浮き彫りにしました。警視庁の粘り強い捜査と証拠の積み重ねが、否認を続けた犯人を最終的に自供へと追い込み、事件の解明に繋がったことは、司法の正義を示す重要な一歩でした。この事件から私たちは、困難な時代においても決して油断せず、社会の安全と個人の尊厳を守るための不断の努力が必要であることを学びます。
参考文献
- 警察庁の資料
- 『昭和史全記録』毎日新聞社刊
- その他、当時の新聞記事、公文書等