広陵高校野球部問題に潜む「高校野球の闇」:高野連とメディアの癒着が招く負の連鎖

広陵高校(広島市)野球部内で発生した暴力行為問題を巡る一連の騒動は、依然として社会に大きな波紋を広げています。強豪校の野球部でありながら、今回の問題とその後の学校の対応には、旧態依然とした体質と、長年にわたり指摘されてきた高校野球界の根深い問題点が凝縮されていると言えるでしょう。スポーツライターの小林信也氏は、本件を機に日本高校野球連盟(高野連)や関係機関が抜本的な改革に踏み切るべきだと強く提言しています。

長年指摘され続ける「変わらない体質」

小林氏は30年以上もの間、高校野球が抱える問題点を指摘し続けてきました。しかし、その間に本質的な変化はほとんど見られません。例えば、球児の髪型の自由化一つ取っても、ごく最近になってようやく「長髪の球児」がニュースになるほど、時代の変化に遅れを取っています。子どもたちの貴重な青春の一時期に、形式的な規律で縛りつけることの意義を根本から問い直すべきです。表面的な改善はあっても、肝心な部分、すなわち体質そのものは変わっておらず、今回の広陵高校の問題は、その「変わらなさ」の象徴として浮き彫りになりました。

広陵高校の対応に見る「不自然さ」と「甘い見通し」

広陵高校の一連の対応からは、多くの腑に落ちない点が見受けられます。

一貫性のない説明と報告書の信憑性

学校側は、1月に起きた暴力事案に関与した部員への処分は既に済んでおり、甲子園出場に問題はないと主張しました。しかし、実際に甲子園での勝利を収めた後で出場辞退に至った経緯は、説明に一貫性を欠きます。そもそも、処分や判断の根拠となった学校の報告書がどこまで真実を反映しているのか、その信憑性にも疑問符が付きます。

監督・選手の不可解な沈黙が示すもの

また、学校の出場辞退という決定に対し、監督や選手が唯々諾々と従っているように見える点も非常に不自然です。これは、処分済みとされた事案以外にも問題が存在していたこと、そして被害者への具体的な救済措置などを含め、事態が完全には解決に至っていなかったことを、当事者である彼ら自身が暗に認めていると解釈することもできます。彼らの沈黙は、事態の根深さを物語っているのです。

「甲子園に出れば許される」という誤った認識

学校側の動きを詳細に振り返ると、「甲子園に出場さえすれば、全てが丸く収まる」「大手メディアが守ってくれる」という甘い見通しがあったことが透けて見えます。朝日新聞やNHKをはじめとする主要なメディアが後ろ盾となり、外部からの批判もかき消してくれる、という「出場すれば勝ち」という認識が、学校側や監督に根強く働いていた可能性は否定できません。

高野連と大手メディアの「奇妙な関係」が問題の根源

「多少の問題を抱えていても甲子園に出場しさえすれば許される」という認識が蔓延する要因の一つに、高野連とメディアの特異な関係性があります。高校野球全国大会の会長を朝日新聞社の社長が務め、副会長を高野連会長が務めるという図式は、冷静に考えれば極めて奇妙です。「教育」を理念に掲げる大会のトップが、営利企業である新聞社の経営者であることは、矛盾としか言いようがありません。

広陵高校の出場辞退を受け、会見する日本高野連会長と朝日新聞社長広陵高校の出場辞退を受け、会見する日本高野連会長と朝日新聞社長

この構造が常態化することで、朝日新聞やNHKを中心とする大手メディアは、一方で甲子園を「美談」として大量に報道し続ける一方で、大会やその背景にある組織に関するネガティブな情報、あるいは都合の悪い事実を積極的に抑制・封じ込めてきた歴史があります。この「癒着」とも言える関係性が、高校野球界の閉鎖的な体質を温存し、本質的な問題解決を阻む大きな要因となっているのです。

日本の高校野球に求められる「抜本的改革」

広陵高校の事例は、まさに氷山の一角であり、日本高校野球界全体に横たわる構造的な問題を示唆しています。長年の慣習に固執し、問題から目を背け、保身に走る姿勢は、未来ある子どもたちの成長を阻害しかねません。

今回の騒動を単なる一学校の不祥事で終わらせるのではなく、高野連が主導し、メディアや教育関係者と連携しながら、抜本的な改革を行うべき時が来ています。真に子どもたちの健全な成長と、教育の場としての役割を果たす高校野球の実現のためには、透明性の確保、旧弊の打破、そして何よりも選手一人ひとりの尊厳を最優先する姿勢が不可欠です。


参照元:

  • PRESIDENT Online (プレジデントオンライン) 2025年8月21日掲載記事「広陵高校に蔓延する『甲子園に出れば許される』の甘い見立て…高野連とメディアの奇妙な関係が問題の根源」(Yahoo!ニュースJAPANより)