「李香蘭」から「山口淑子」へ:波乱の生涯と不朽の遺産

昨年1月、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」への登場が大きな話題を呼んだ「李香蘭」。日本人でありながら中国人歌手として一世を風靡した彼女の存在は、わずか1話の出演と昆夏美が歌う「夜来香」の圧倒的なパフォーマンスにより、その根強い人気を改めて示しました。また、1991年の初演以来、今も再演を重ねる劇団四季の「ミュージカル李香蘭」も、彼女の名が時代を超えて語り継がれる大きな要因となっています。

これらの創作物で描かれる李香蘭は、日中の狭間で歴史に翻弄されながらも美しい歌声を響かせた歌姫のイメージが強いでしょう。しかし、『李香蘭 私の半生』(新潮文庫)に綴られた劇的な前半生に劣らず、本名の「山口淑子」として生きた後半生もまた波乱に満ちたものでした。2014年9月7日に94歳で逝去した山口淑子さんの人生を、当時の「週刊新潮」の記事を再編集し振り返ります。

再婚後、芸能界引退を経て公人として活躍した山口淑子氏(1959年撮影)再婚後、芸能界引退を経て公人として活躍した山口淑子氏(1959年撮影)

李香蘭・山口淑子:波乱の生涯と多大な影響

戦時中、「李香蘭」として女優・歌手で活躍した山口淑子さんは、2014年9月7日に94歳で心不全のため亡くなりました。彼女は自伝『李香蘭私の半生』の中で、「私はまさに、運命の『時代』と『場所』に居あわせてしまった」と記しています。その言葉が示す通り、日本と中国の狭間で揺れ動いた、数奇な運命をたどった一生でした。

妹の山崎誠子さんは、「最期は家族が集まりまして、静かに、おだやかに自宅で亡くなりました」と語っています。また、自伝の共著者である作家の藤原作弥氏は、「一昨年あたりからベッドでの生活になっていましたが、医者が『90歳を過ぎてこんなにお元気なのは信じられない』と驚くほど、記憶力は衰えず、話も筋の通ったものだった。大きな病気もなく、本当に大往生です」とその最期を振り返っています。

「歌う美人女優、李香蘭」としての栄光と葛藤

山口さんは1920年に旧満州(現中国東北部)で生まれました。九州出身で、南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた父と、同じく九州出身の母のもと、ごく普通の少女として育ちました。しかし、満州事変の2年後の1933年、彼女の運命を大きく変える出来事が起こります。藤原氏によると、「少女時代、病弱だった彼女は健康のためにマダム・ポドレソフというオペラ歌手について歌曲を習うようになります。そしてある時、マダム・ポドレソフの公演の際に前座で歌い、それが奉天放送局員の目にとまり、李香蘭の名で1933年に歌手デビューしたのです」。

さらに1938年には、満州国と満鉄によって設立された「満州映画協会」(満映)にスカウトされ、「歌う美人女優、李香蘭」として一躍大スターとなります。もちろん、日本人ではなく中国人として活動する中で、彼女は中国人であるフリをしなければならないことへの罪悪感に苛まれ続けました。

「さようなら、李香蘭」:本名への回帰

こうした葛藤を明かせぬまま終戦を迎え、1946年に引き揚げ船で帰国しました。その時、偶然にも船内のラジオから流れてきたのは、自身が歌う「夜来香」のメロディーでした。自伝には「山口淑子にもどった私は『さようなら、李香蘭』とつぶやいた。『さようなら、私の中国』」と綴られています。この言葉は、彼女が背負った二つの国の狭間での苦悩と、新たな人生への決意を象徴しています。

時代を超えて響く歌声:現代に生きる李香蘭

「ブギウギ」での李香蘭の登場が大きな反響を呼んだように、彼女の存在は今なお日本の文化に深く根差しています。昆夏美が歌い上げた「夜来香」は、その魅力が色褪せないことを証明し、新たな世代の心にも響きました。また、劇団四季によって生み出された「ミュージカル李香蘭」は、「和製ミュージカル」の代表作として、初演から30年以上経った今も、浅利慶太プロデュース公演として再演を重ねています。

山口淑子、すなわち李香蘭は、単なる歌手や女優としてだけでなく、日中関係の複雑な歴史において、その運命に翻弄されながらも独自の光を放った象徴的な存在です。彼女の人生は、音楽、演劇、そして国際関係という多岐にわたる分野において、現代にも多大な影響を与え続けています。

結びに

山口淑子さんの生涯は、まさに「時代と場所」によって形作られた、他に類を見ないものでした。「李香蘭」としての輝かしい活躍と内なる葛藤、そして「山口淑子」としての公人としての活動は、現代の日本と中国の関係性にも示唆を与えるでしょう。彼女の数奇な運命と、時代を超えて人々を魅了し続けるその遺産は、今後も語り継がれるべき重要な歴史の一ページです。

参考資料