戦前、そして戦後の激動期、北海道の奥深い山々では、自然と隣り合わせの生活を送る人々が、しばしば野生の猛獣、特に巨大なヒグマと命を賭けた対峙を強いられていました。そこには、単なる動物と人間という枠を超え、生存をかけた壮絶なドラマが常に繰り広げられていたのです。本記事では、ヒグマの脅威が克明に描かれた名著『羆吼ゆる山』(今野保著、ヤマケイ文庫)より、人間がその知恵と勇気でヒグマに挑んだ衝撃的なエピソードの一部を抜粋し、紹介します。この物語は、民家のすぐそばにまで迫るヒグマの恐怖、そして家族を守るために立ち上がった一人の男性の奮闘と、その後の緊迫した追跡劇を浮き彫りにします。
北海道斜里町で撮影されたエゾヒグマの姿。日本の手付かずの自然とそこに生息する野生動物の脅威を象徴する。
家族を守る壮絶な一撃:まさかりがヒグマの頭部に炸裂
その日の朝、民家のすぐそばまで忍び寄ったヒグマは、家畜小屋の馬を狙っていました。緊迫した状況の中、家族のために立ち上がったのは、まさかりを手に表へ出た一人の男性です。彼は足音を殺し、獲物に夢中になっているヒグマの背後へと静かに忍び寄りました。ヒグマは、まさに馬に鋭い爪を打ち込み、引き倒そうとしている最中であり、背後に迫る人間に全く気づいていませんでした。
男性は、一歩そろりと前進すると、高々と振りかぶったまさかりを、ヒグマの頭部めがけて渾身の力で打ち下ろしました。「ガツン」と、骨まで響くような強烈な手応えがあり、まさかりは弾き返されます。しかし、この一撃はヒグマに致命的な打撃を与えたようです。男性が素早く体をかわし、再びまさかりを振り上げたときには、ヒグマはすでに馬小屋の入口から離れ、目がくらんだかのようにその場でぐるぐると回っていました。そして、そのまま沢伝いに奥へと走り去っていったのです。幸いにも馬は、耳の後ろのたてがみから平首にかけて大きな傷を負ったものの、小屋の頑丈なアオダモ製馬栓棒が折れなかったため、地面に引き倒されることは免れました。間もなく、銃を携えた父や他の家族が現場に駆けつけ、九死に一生を得た状況に安堵の息を漏らしました。
負傷したヒグマの追跡:父が辿る血痕の謎
その日、子どもたちが学校へ出かけた後、朝食を終えた男性の父は、冷静にウィンチェスターライフルを背負い、負傷したヒグマの足跡を辿り始めました。ヒグマが逃げ去った後には、足跡に沿って点々と鮮血が滴り落ちており、まさかりの一撃がヒグマの頭部にかなりの深手を負わせたことは疑いようがありませんでした。父は慎重にその痕跡を追跡していきます。
川を渡ったと思われる場所では血痕がいったん途切れていましたが、川から上がったと見られる箇所からは、再び小道伝いに血の跡が続いていました。しばらく進むと、かつて木材の流送に使われた堤の跡があり、そこは約3メートルほどの滝となっていました。滝の手前10メートルあまりの左手には大きな岩がそびえ、小道はその岩から左の斜面を登り、大きく右回りに迂回して滝の上へ通じています。父がこの大岩の手前から左側の斜面へと足を一歩踏み出したその時、彼はふと何かの異常を感じて動きを止めました。それまで続いていた血の跡が、そこには全くなかったのです。2、3メートル後退した父は、もう一度川岸を入念に調べてみました。すると、血のしたたりは、大岩と川の間に広がる狭い岩棚を通り、堤の方へと続いていることが判明します。大岩の前を回って右へ少し進むと、落下する水が耳をつんざくような音を轟かせ、滝壺で白い泡が渦巻く光景が目前に広がっていました。負傷したヒグマの行方は、深まる謎と共に、さらに奥へと続いていたのです。
危険と隣り合わせの生活:自然との共存が生む物語
このエピソードは、戦前戦後の北海道において、いかに人々がヒグマという自然の脅威と密接に向き合い、時には命懸けで対峙してきたかを雄弁に物語っています。まさかり一つで家族を守ろうとした男性の勇敢さ、そして冷静かつ執念深く負傷した猛獣を追跡する父親の姿は、当時の人々の並々ならぬ生存本能と、大自然への畏敬の念を現代に伝えます。この物語は単なる過去の記録ではなく、自然の中で生きる人間の強さと、野生動物との共存という永遠のテーマを私たちに問いかけているのです。
参考資料
- 今野保 著 『羆吼ゆる山』、ヤマケイ文庫、1981年 (再版:山と溪谷社、2006年)