2002年、北朝鮮による拉致問題において5名の日本人被害者が帰国を果たしました。しかし、横田めぐみさんを含む8名については「死亡」と一方的に通告され、問題は深刻化しました。拉致被害の真実を究明するため、2004年に開催されたのが日朝実務者協議です。この重要な交渉の最中、日本側は「横田めぐみさんの遺骨」とされる証拠品を受け取りましたが、後にそれが偽物であったことが判明します。この国際交渉における不可解な内幕を、当時の警察庁外事課長として協議に参加し、後に元国家安全保障局長を務めた北村滋氏が明らかにしました。
「悪の枢軸」発言後の日朝協議の現状
「第3回日朝実務者協議」が開催されたのは、米国が北朝鮮を「悪の枢軸」と名指ししてから約3年が経過した時期でした。北朝鮮は当時も変わらず、米軍の存在を自国の生存に対する最大の脅威と認識し続けていました。協議の場では、北朝鮮側は彼ら独自の調査結果に基づく主張を一歩も譲らず、「8人死亡、4人未入境」という回答を繰り返しました。日本側との議論は完全に平行線を辿り、当時の藪中団長は「厳しい」と見通しを漏らすほど、交渉は消耗戦の様相を呈していました。
消耗戦の終盤に差し掛かった頃、藪中団長が北朝鮮側から突然呼び出され、火葬済と見られる人骨を持って戻ってきました。それは、日本側が長年要求してきた「横田めぐみさんの遺骨」でした。北朝鮮は、この遺骨を提示することで、国交正常化交渉の入り口に立つかどうかというボールを日本側に投げた積りだったのかもしれません。
日朝実務者協議当時、警察庁外事課長として訪朝した元国家安全保障局長・北村滋氏
帰国、そして横田ご夫妻への報告
代表団が平壌を出発し、小雨降る羽田空港にチャーター機で帰国したのは11月15日の午前11時前でした。受け取った資料を速やかに、そして安全に日本へ持ち帰るため、チャーター便が利用されたのです。当時のテレビニュースは、機体から資料が入った7個のコンテナが運び出される様子を実況し、「外務省幹部は『拉致被害者の安否に関する良い情報はない』と話した」と報じました。結果報告を受けた町村信孝外相は記者団に対し、「彼ら(北朝鮮側)なりの努力は、前2回(の日朝実務者協議)に比べればあった」と発言。この言葉には、なんとかして北朝鮮との関係を進展させたいという日本側の一縷の期待が滲んでいました。
北村氏は帰国後、その足で警察庁に戻り、午後1時から漆間長官への報告を行いました。これを終え、午後3時には藪中団長や鑑識課員らと共に横田ご夫妻との面会に臨みました。この日は奇しくも、横田めぐみさんが北朝鮮によって拉致されてから27年目の日でした。この時ご夫妻が見せた悲痛な表情は、今でも北村氏の記憶に深く刻まれていると言います。
結論
2004年の日朝実務者協議は、拉致問題解決への淡い期待と、北朝鮮の不誠実な対応が交錯する極めて困難な交渉でした。「横田めぐみさんの遺骨」とされる証拠品が偽物であったという衝撃的な事実は、拉致問題の複雑さと、国際交渉の舞台裏に潜む闇を浮き彫りにしました。北村滋氏による証言は、日本が直面した厳しい現実と、被害者家族の深い悲しみを改めて私たちに訴えかけるものです。この問題の真の解決には、さらなる事実究明と国際社会の協力が不可欠であり、日本政府の粘り強い外交努力が今後も求められます。
参考文献
- 文藝春秋. (掲載日不明). 元国家安全保障局長・北村滋氏が明かす日朝実務者協議の「横田めぐみさんの遺骨」騒動の舞台裏. Yahoo!ニュース. https://news.yahoo.co.jp/articles/400dcb7c0a97e7364d8c2ed8787bd995ac424fa6