小泉八雲と松江:愛と失望が織りなす文豪の足跡と現代への影響

作家・小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーン。NHKの朝ドラ「ばけばけ」で再び脚光を浴びる彼は、日本各地を転々としながら、特に神々の国・松江で日本の奥深い美しさに触れました。その一方で、後の滞在地では予期せぬ失望を味わい、「日本で住んだ一番興味のない都市」とまで漏らした彼の胸の内は、その日本への愛情が複雑に絡み合うものでした。この文豪が松江で築き上げた遺産と、現代に息づくその影響、そして彼が抱いた日本への多面的な感情に迫ります。

松江で「ヘルンさん」として息づく小泉八雲の遺産

小泉八雲が島根県尋常中学校に赴任した際、彼は書類に「ラフカヂオ・ヘルン」と記しました。このため、生徒や同僚からは親しみを込めて「ヘルン先生」「ヘルンさん」と呼ばれるようになり、八雲自身もその響きを気に入り、「へるん」や「遍留ん」と刻んだ印鑑を作るほどでした。妻のセツも書き物には「ヘルン」と記し、この愛称は松江の町に深く根を下ろしました。

終戦から復興へと向かう1951年(昭和26年)、松江市は小泉八雲の文筆が「世界的に著名である」として、京都や奈良と並び「国際文化観光都市」として国に認定されました。それから130年余り経った今も「ヘルンさん」の呼び名は松江に生き続け、市内の至る所で八雲の肖像画をあしらったポスターが見られ、地ビール「ビアへるん」もその名を冠しています。

松江の美しい風景を思わせる日本の伝統的な町並み松江の美しい風景を思わせる日本の伝統的な町並み

セツと八雲をモデルにしたNHKの朝ドラ「ばけばけ」の放映決定を受け、「セツと八雲」ムーブメントはさらに盛り上がりを見せています。松江市内の洋菓子店は八雲の怪談話にちなんだ雪女や河童の型抜きクッキーセットをふるさと納税の返礼品として販売しており、かわいらしいデザインながら河童の方が人気を集めているという微笑ましいエピソードもあります。また、松江市内のホテルでは、地元の高校生が考案した夫婦にちなんだドリンクが登場。「八雲の湖」は宍道湖や松江の空をイメージした青色が基調で、「セツの花言葉」は波瀾万丈の人生を乗り越えたセツの優しさと強さを映し出す紫色の一杯として親しまれています。

小泉八雲が訪問したゆかりの地である隠岐諸島・島根県海士町では、2025年1月、八雲にちなんだデジタル地域通貨「ハーンPay」が導入されました。口座引き落としでチャージし、1コイン=1円として使えるこの取り組みは、愛される八雲像がデジタル社会にも渡り歩いている現代の象徴と言えるでしょう。

神話の地・松江とアイルランド、魂の共鳴

八雲が愛した松江には、今も神話的な営みが色濃く残っています。『古事記』において、亡き妻イザナミに会うため黄泉の国を訪れたイザナギが、変わり果てた妻の姿に驚き逃げ出し、この世との境を岩で塞いだという黄泉比良坂はその象徴です。松江市郊外の東出雲町揖屋は、この伝承の地とされており、現代においても、亡き人への思いを綴った手紙のおたき上げが毎年行われるという、都雅な癒やしの営みが息づいています。

こうした土地柄に触れた八雲は、少年期を過ごしたアイルランドの精神世界と通じるものを感じ取りました。それは、妖精が息づき、樹木をはじめとする自然の中に精霊が宿るという、アイルランド古来の信仰に通じるものでした。

他界する3年前、アイルランドの国民的詩人であり、後にノーベル文学賞を受賞するW・B・イェーツに宛てた手紙の中で、八雲は以下のように胸の内を明かしています。

「ダブリンのアッパー・リーソン通りに住み、私には妖精譚や怪談を語ってくれたコナハト出身の乳母がいました。だから私はアイルランドのものを愛すべきだし、また実際愛しているのです」(1901年9月24日付、イェーツ宛て書簡より)

二度と帰ることのなかった故郷アイルランドへの深い愛情を告白したこの文面には、「愛すべきだし、また実際愛しているのです」という入り組んだ言い回しに、八雲の複雑な心情が表れているように感じられます。日本に深く帰化した彼が、故郷への思いを断ち切れないでいた、その葛藤が垣間見える一節です。

結論

小泉八雲は、神話と自然が息づく松江に、自身の故郷アイルランドの精神的な響きを見出しました。この地で日本の美しさと深遠な文化に魅せられ、「ヘルンさん」として地域に深く愛される存在となった彼の遺産は、NHK朝ドラ「ばけばけ」をはじめとする現代の様々な取り組みによって、今もなお色褪せることなく輝き続けています。しかし、その日本への深い愛情の陰には、故郷アイルランドへの複雑な思いも秘められており、彼の人生が日本と西洋の文化が交錯する中で織りなされた、奥深い物語であったことを示唆しています。彼の残した足跡は、日本の文化を世界に伝える貴重な架け橋であり、その多面的な感情こそが、彼の作品に深みを与え続けているのです。

参考文献

  • 小泉 凡『セツと八雲』(朝日新聞出版)