今年度、日本国内でクマに襲われて死亡した人は12人(10月30日時点、環境省まとめ)に上り、過去最多の被害を記録しています。この痛ましい状況を受け、ノンフィクション作家であり人喰い熊評論家の中山茂大氏は、約80年分の北海道の地元紙を詳細に通読し、クマと遭遇しながらも生還した事例を徹底的に分析。その結果、「無事に生還できたケースには、いくつかの共通するパターンがある」と指摘します。本記事では、過去の貴重な体験談から、クマとの遭遇時に効果的な対策について深く掘り下げていきます。
クマによる人身被害、なぜ今、過去最多を更新するのか
今夏、北海道福島町では新聞配達員が、知床の羅臼岳では登山客がクマに襲われ命を落としました。秋以降は本州のツキノワグマも例年にない凶暴性を見せ、クマによる人身被害は記録的な水準に達しています。このような状況が続く中、「クマと出会ったらどうすればいいのか」という切実な問いに対し、多くの人々が信頼できる情報を求めています。
中山茂大氏は、明治、大正、昭和の約80年間にわたる北海道の地元紙に加え、市町村史、部落史、自伝、林業専門誌など多岐にわたる資料を丹念に調査。ヒグマに関する膨大な記事や挿話を抽出し、データベース化しました。その集大成は著書『神々の復讐』(講談社)にまとめられています。この研究の中には、実際にクマと出会った後に無事に生還した数多くの事例が含まれており、中には「襲いかかってくるクマを巴投げで投げ飛ばして助かった」といった都市伝説のような話も存在します。これらの先人たちの体験から、クマとの遭遇時にどのような行動が有効であったのかを検証し、現代における対策への示唆を探ります。
専門家が分析する「生還」のヒント:本当に有効な対策とは
「死んだふり」は有効か?生存確率は五分五分
「ヒグマに遭遇したら死んだふりをすると助かる」という俗説は広く信じられています。この説は、「クマは動かないものを食べない」という、これまた一般的な俗説に基づいています。しかし、専門家によると、実際に「死んだふり」が有効である確率は五分五分であり、たとえ助かったとしても、かなりの重傷を負うケースが多いのが実情です。
古い事例の中には、明治時代初期に以下のような記録が残されています。
亀田郡七飯村の者が単身で舞茸採りに出かけ、たまたま大きな舞茸を見つけて、天の賜と喜んで思わず声を発したところ、生い茂る木立から大牛にも等しい猛熊がこちらを目がけて進んで来た。その勢いの恐ろしさは「胆魂魄も天外に飛去り」という有様であった。某はかねて聞いていた通り、死ぬも生きるも天の運と度胸を据えて自らそこへ打ち倒れて息を殺し「死したる体」を見せかけた。やがて彼の熊が側に近づき、某の体をしきりに打ち叩き、爪でもって散々傷つけた後、手を口に当てて呼吸の有る無しをうかがい、真に死んだと思ったのか、その場を立ち去った(後略)
(『函館新聞』明治14年10月10日)
この男性は、最終的に27カ所もの傷を負いながらも病院に運ばれ、命を取り留めたとされています。
他にも、「死んだふり」を試みた結果、全治3週間の重傷を負ったり、後遺症が残ったりした事例が二つあります。
夕張炭鉱の坑夫、中村理吉(三二)は、炭層調査のため八名の人夫と共に従事中、巨グマが突如、前途に立ち塞がり、咆哮一声したので、理吉は大地に俯伏した。飛びかかったクマは、その後頭部に噛み付いたが、必死に痛みをこらえて仮死の状態を装い、しばらくして静かに頭をもたげてみると、クマはなおかたわらを去っておらず、手を挙げてさらに頭部を掻きむしり、紅に染めて倒れた姿を見て、悠々と立ち去った(後略)
(『北海タイムス』明治41年9月3日)
“熊は死んだものは襲わない”と教えられていたのは嘘でした。熊は私の上に腰を下ろして長い爪で尻べたにズブリと刺しました。痛いのでビクッと動くとウワッと唸って咬みつきました。ひっくり返すやら手玉に取ったり、まるで熊のおもちゃでした。追っ手の人が来て仕留めてくれましたが、片目、片手、片足になりました。それでも猟師の人達が熊をなげおいて、病院に運んでくれたので助かりました。
(吉本国男)(『東三川百年史』平成7年)
山間部で注意すべきクマの姿。増加する人身被害から身を守るための情報収集の重要性を示す。
これらの生々しい体験談は、「死んだふり」が絶対的な安全策ではないことを明確に示しています。クマの攻撃性や状況によっては、この行動がかえって致命傷につながる可能性も否定できません。
まとめ:情報に基づいた冷静な判断が命を守る鍵
過去のデータと専門家の分析から明らかになったのは、クマとの遭遇時には「こうすれば必ず助かる」というような単純な解決策は存在しないということです。特に広く信じられている「死んだふり」についても、成功例がある一方で、重傷を負ったり、命の危険に晒されたりするケースも少なくありません。
近年のクマによる人身被害の増加は、私たちが改めてクマの生態と適切な対処法について学ぶ必要性を強く訴えかけています。山間部に入る際は、クマ鈴やスプレーなどの対策グッズを携行し、周囲に注意を払うことが基本です。そして何よりも、不確かな情報に惑わされず、専門家による研究や信頼できる機関からの情報に基づいた冷静な判断が、自身の命を守る上で最も重要な鍵となるでしょう。
参考文献:
- 環境省まとめ (10月30日時点)
- 中山茂大著『神々の復讐』(講談社)
- 『函館新聞』明治14年10月10日
- 『北海タイムス』明治41年9月3日
- 『東三川百年史』平成7年 (吉本国男氏の体験談として引用)





