日本を代表する名優、仲代達矢さんが11月8日、肺炎のため92歳で永眠されました。映画『影武者』をはじめ数々の名作に出演し、また私塾「無名塾」を主宰し多くの俳優を育て上げた功績は計り知れません。その訃報に接し、無名塾の創成期から約7年間在籍した女優で音楽家の神崎愛さん(71)は、「女優としてのすべてを教えていただいた師匠なのに、何の恩返しもできないままに天国に行かれてしまって、本当に不肖の娘だったな……と悲しくなっています」と深い悲しみを滲ませています。
日本映画界の巨星、静かに旅立つ
仲代達矢さんの葬儀は11月14日昼、都内の自宅で執り行われました。無名塾出身の俳優である役所広司さん(69)、益岡徹さん(69)、若村麻由美さん(58)らが多数参列し、故人との別れを惜しみました。特に役所広司さんが涙を浮かべる場面では、若村麻由美さんからそっとハンカチが差し出されるなど、師を慕う深い愛情が垣間見えました。仲代さんの逝去は、日本映画・演劇界に大きな空白を残すこととなります。
仲代達矢氏のポートレート
逆境を乗り越え、俳優の道へ
仲代さんの人生は幼少期から決して平坦ではありませんでした。幼くして父親を亡くし、残された4人の子供たちを母親が女手一つで育てたため、長らく困窮生活を送っていたといいます。しかし、その逆境が彼の運命を大きく変えるきっかけとなりました。大井競馬場でアルバイトをしていた19歳の頃、“闇の予想屋”から「お前は顔が役者向きだから」と俳優座養成所の受験料2千円をもらい、それが俳優の道へ進む大きな転機となったのです。この出会いがなければ、今日の仲代達矢は存在しなかったかもしれません。
妻・宮崎恭子さんとの絆と悲劇
俳優座養成所で運命的な出会いを果たしたのが、後に妻となる宮崎恭子さんでした。お二人は1957年に結婚し、聡明な恭子さんは女優を引退して仲代さんを献身的に支え、彼が日本を代表する名優となる礎を築きました。結婚7年目には待望の妊娠に恵まれますが、臨月で階段から転倒し、死産という悲劇に見舞われます。この時の妻の様子を、仲代さんは晩年、「そんな時ですら妻は笑顔を向けて心配させまいとした」と目を潤ませて語っていたと伝えられています。1977年に養女の奈緒さんを迎えるまで、お二人の間に子供はいませんでした。
自宅から仕事へ向かう仲代達矢氏を見送る妻・恭子氏
「無名塾」創設、若き才能への尽きぬ情熱
深い悲しみを乗り越え、夫妻が新たな情熱を注いだのが新人俳優の育成でした。仲代さんは、自身が長く苦労した時代を振り返り、「役者を志す若者たちに夢を与えたい」との強い思いから、1975年に脚本・演出家に転じた妻の恭子さんと共に、東京・世田谷の自宅で私塾「無名塾」を創設しました。塾生には無料で役者修業に専念させ、アルバイトを禁止。約40坪の稽古場「仲代劇堂」を新設するため、仲代さんは銀行から3億8千万円を借り入れ、20年かけて完済したという逸話は、彼の教育にかける並々ならぬ情熱を物語っています。
師弟の愛と厳しい指導の日々
無名塾設立当初は、仲代さんから非常に厳しい指導があったとされています。前述の神崎愛さんは、当時の稽古について「発声から、立ち回りから、それこそイロハから教わりました。宮崎さんは女優さんでもいらした立場から、お稽古のその場に立ち会って『セリフ回しはこうなのよ』『目線はこちらのほうへ』と、手取り足取り教えてくださいましたね。仲代さんは総監督ですから、それは厳しくて、私、蹴飛ばされそうになったことも何度も……(苦笑)」と語りつつも、「でも『音楽家と舞台女優の両立もいいんじゃないのか』と言われ、仲代さんの女房役で多くの作品に出演することができました。本当にお世話になりました」と、その根底にあった師の温かい眼差しに感謝の念を述べています。
また、1989年に入塾し約10年間在籍した女優の赤間麻里子さん(55)も、「叱られて泣き、泣けばまた叱られた日々も、根底にあるのは惜しみない愛情でした。2畳ほどの台本部屋で下宿させていただいた時間は、人生で最も濃密で幸せな修業でした。言葉の及ばぬほどの深い感謝を、心の底からお伝えしたいです」と、師匠への尽きせぬ思いを明かしました。厳しい指導の中にも、常に深い愛情があったことが、多くの弟子たちの心に深く刻まれています。
仲代達矢さんは、その圧倒的な存在感でスクリーンや舞台を彩り続けただけでなく、無名塾を通して日本の演劇界に新たな才能を送り出し続けました。彼の人生そのものが、若者たちに夢と希望を与え、役者としての生き方を教える尊い遺産として、これからも語り継がれていくことでしょう。
参考文献:




