黒柳徹子が見た森茉莉の素顔 – 文豪の娘が築いた耽美な世界と予測不能な日常

戦後のテレビ草創期から活躍し、ユニセフ親善大使としても知られる黒柳徹子さんは、これまで数々の多彩な人々との交流を通じて大きな影響を受けてきました。その中でも特に、文豪・森鷗外の娘であり、耽美な世界観で知られる作家、森茉莉さんとの出会いは、黒柳さんにとって豊かで忘れがたい時間だったと語られています。出会いは森さんが80歳を迎える頃。古びたアパートの一室での一夜や深夜の長電話など、稀有な体験が綴られています。

1957年、初の著作『父の帽子』を刊行した頃の森茉莉さん1957年、初の著作『父の帽子』を刊行した頃の森茉莉さん

三島由紀夫が絶賛した森茉莉の文学

黒柳徹子さんが森茉莉さんの小説を最初に激賞されたのは、作家の三島由紀夫さんでした。三島さんは、行きつけの「鮨長」で黒柳さんと顔を合わせるたび、朗らかに様々な話をしていました。ある夜、三島さんはその特徴的な大きな目を輝かせながら、「なんたって、あの時代に『枯葉の寝床』や『恋人たちの森』を書いたんだから、すごいよ。(このふたつの小説を森茉莉さんが書いたのはまだ昭和三十年代だった)。ゲイの小説を本格的に書いたのは、彼女が初めてじゃないか」と語ったといいます。あの『仮面の告白』の作者が褒める言葉は、森茉莉さんの文学の真価を証明するものでした。

当時すでにその二つの小説を読んでいた黒柳さんは、他に類を見ない妖しくも優美な世界に強く惹かれていたため、「やっぱり!三島さんが褒めるくらいだから本物なのね」と深く納得したそうです。

アラン・ドロンとジャン=クロード・ブリアリが紡いだ創作の源泉

数年後、森茉莉さんと直接知り合う機会を得た黒柳さんは、すぐに三島さんの言葉を伝えました。「どうして、ゲイの小説をお書きになろうとお思いになったの?」と尋ねると、森茉莉さんは意外な答えを返しました。「私、何かで写真を見たのよ。フランスの映画人とか演劇人がたくさん写っている、パーティか何かの写真で、おおぜいの人がいるんだけど、その中で、アラン・ドロンと、ジャン=クロード・ブリアリがちょっと離れて立っているのに、ふたりの目が互いに合ってたの。見つめ合ってた、というのかしら。その時、あ、これで書こう、と思ったのね」。

後に、ジャン=クロード・ブリアリさんが来日し、「徹子の部屋」に出演した際、彼とアラン・ドロンがかつて一緒にアパートで暮らしていたことを黒柳さんに話しました。その事実を森茉莉さんに伝えると、「あら、そうなの!それは知らなかったけど、私は、やっぱり正しかったわね」と嬉しそうに答えたといいます。二人の美青年の関係性を写真一枚から敏感に察知したこともさることながら、そこから豪華で、なまめかしく、貴族的で優雅な小説世界を築き上げた森茉莉さんの芸術性は、まさに稀有なものでした。

黒柳徹子さんのエッセイ集『トットあした』の表紙黒柳徹子さんのエッセイ集『トットあした』の表紙

「話の特集」パーティでの運命的な出会い

黒柳さんと森茉莉さんの最初の出会いは、両者がよく執筆していた雑誌「話の特集」の記念パーティでした。会場で偶然森茉莉さんを見かけた黒柳さんは、同誌の矢崎泰久編集長から紹介を受けます。その瞬間、二人は一瞬で友達になりました。パーティの二次会で訪れた洋食屋さんでは隣り合わせに座り、大食漢の黒柳さんと同じくらい、森茉莉さんも見事な食欲を発揮したそうです。二人ともお酒を飲まなかったため、食べることに集中し、オムライスやカレーライス、ビーフシチューなどを、まるで女学生のように分け合いながら、夢中で食べ続けました。

魅惑の八十婆さんと美食の夜

当時、森茉莉さんは「週刊新潮」で辛辣なテレビ評「ドッキリチャンネル」を連載しており、そこで自身を「八十婆さん」と表現していました。しかし、実際に会った森さんは80歳にはとても見えなかったといいます。丸い顔にしわ一つなく、血色も良く、手もふっくらとしていて、表情豊かで若々しい印象でした。ただ、頭に巻いたスカーフが少しずれると、ピンク色の地肌が見え、ほとんど毛がないことがわかりました。そんな頭が見えていることも平気で、様々な話をしてくれる森さんとの時間は楽しく、二人は笑いながらデザートまで平らげました。

二次会がお開きになり、黒柳さんが車で森さんを送っていくことになります。世田谷のかつて黒柳さんの実家があったあたりまで来ると、森さんは「ここが私のアパート」と告げました。ぽつんと灯る街灯の明かりの下に、小さな団地のようなアパートが見えました。「ねえ、二分、お寄りにならない?お引き止めしないから、二分だけ!」という森さんの誘いに、黒柳さんは喜んで応じ、手をつないで二階の部屋まで上がっていきました。

世田谷のアパート、その驚くべき「美の大聖堂」

エレベーターのない階段を上り、暗い外廊下を進んだ突き当たりの部屋のドアを、森さんは「ここよ」と言って開けました。「どうぞ、お入りになって。足元、お気をつけになってね」。その言葉はもっともで、部屋に入るとすぐ、空になったざるそばやどんぶりの乗った出前のお盆が何枚も並び、その脇には新聞がうずたかく積まれていました。その上にも、出前のお盆やどんぶりが重ねて置かれており、絶妙なバランスで微動だにしない様子に黒柳さんは感心しました。

散乱する日常品とコーラでの乾杯

森さんが電気をつけると、そこは台所兼ダイニングのような三畳ほどの空間でしたが、物でいっぱいで、ここでゆっくり食事ができるようには見えませんでした。キッチンシンクには半分ほど水が入ったアルミ鍋が一つあるだけで、煮炊きした匂いはまったくありません。ゴキブリが五、六匹、慌てたように物陰へ走り去りました。普段なら一匹でもゴキブリがいれば大騒ぎする黒柳さんでしたが、この時は何も言わず、森さんも平然としていました。

小さなテーブルの上にも様々な物が雑然と置かれており、二人は椅子に腰かけましたが、森さんはすぐに立ち上がり、椅子を動かして後ろの冷蔵庫を覗き、コーラの瓶を取り出しました。「一本あったから、半分こ、しましょうね」と言って、再び椅子を元の場所に戻して座りました。床に物が多いので、いちいちそうしないと冷蔵庫が開かないのでした。

栓抜きやコップを探すのにも一苦労です。食器棚はガラスの戸がなくなっていたため、お湯飲みが一つだけあることがすぐにわかりました。森さんは「もう一個、コップがあるはずだわ」と言って、冷蔵庫の横の襖を開けました。そこに襖があるとは気づいていなかった黒柳さんは驚きます。

隠された寝室と創造の空間

襖の奥は森茉莉さんの寝室になっていました。黒柳さん自身も書斎を「蜘蛛巣城」と称するほど散らかった部屋には慣れている方ですが、この部屋には流石に驚かされました。新聞や雑誌が天井近くまで積み上げられ、窓も見えず、ましてやベッドも見えません。ベッドと床の区別もつかないほどでした。かろうじてテレビが見え、その手前にはか細い獣道のような隙間ができていたため、その先にベッドがあるのだろうと想像するしかありませんでした。おそらく森さんはその狭い空間で横になり、テレビを見て原稿を書いていたのでしょう。

あまり見ているのも悪いと思い、黒柳さんがテーブルに戻ってしばらく待っていると、「あったわ、あったわ」とグラスを持って森さんが寝室から戻ってきました。黒柳さんはグラスとお湯飲みを洗い、コーラを半分ずつ注ぎます。森さんが「乾杯ね」と言って、グラスとお湯飲みをカチンと鳴らし、二人はコーラを飲み干しました。

森鷗外への尽きぬ愛と語り尽くせぬ思い出

あれほど贅沢な乾杯は、それ以前もそれ以後もしたことがないと黒柳さんは今でも思っています。二人は話すことが尽きませんでした。森茉莉さんは、フランス文学者との結婚(「父に言われて撮ったお見合いの写真が、修整のすごく上手な写真館にお願いしたものだから、すごく美人に撮れちゃって、『あれが自分の奥さんになる女性だ』と思っていたら、出てきたのがこれですもの、うまくいくはずないわ」)のこと、離婚のこと、息子さんのこと、パリのこと、様々な人々との交友のこと、小説のことなど、ユーモアたっぷりに話してくださり、黒柳さんは笑いっぱなしでした。しかし、森さんの話の中心は、やはり、お父さまである森鷗外からどれだけ深く愛されたか、ということでした。

黒柳徹子さんの目に映る森茉莉さんは、文豪の娘としての気品と、独自の美意識、そして型破りな日常を生きる稀有な芸術家でした。散乱したアパートの一室で交わされたコーラでの乾杯は、二人の間に生まれた特別な絆と、森茉莉という一人の人間が持つ計り知れない魅力を象徴する忘れがたいエピソードとして、黒柳さんの心に深く刻まれています。