令和の現代、日本の主要な繁華街や駅周辺には防犯カメラが張り巡らされ、街頭犯罪の抑止や凶悪事件の捜査に大きく貢献しています。しかし、昭和の時代、特に「特異な空間」とされる繁華街のホテルでは、警察の捜査の手が及びにくい状況がありました。ここでは、今から44年前、日本有数の繁華街である新宿区歌舞伎町で発生し、未解決のまま時効を迎えた3件の連続殺人事件のうち、最初の事件とその捜査の困難さに焦点を当てます。
繁華街の闇に潜む影:最初の事件の発生
1981年(昭和56年)3月20日午前9時半頃、歌舞伎町2丁目に位置する客室数20の4階建てホテルで、従業員が401号室にチェックアウト30分前の電話をかけましたが応答がありませんでした。不審に思った従業員が予備の鍵で部屋に入ると、ベッドの上であおむけに寝ている女性が、布団を頭まで被った状態で動かないのを発見。午前10時の通報を受け、警視庁新宿署員が駆け付け、女性の死亡を確認しました。
歌舞伎町で発生した未解決ホテル殺人事件の現場写真
被害者の身元と事件の状況
死亡が確認された女性は、紺のブレザーに白いブラウスとタイトスカート姿で、年齢は30~40歳くらいと推定されました。財布は見当たらず、ハンドバッグと化粧品が浴室の浴槽に放置されていました。所持品にあった名刺入れから、歌舞伎町1丁目の大手チェーンキャバレーの名刺が見つかり、警視庁捜査第一課は新宿署に特別捜査本部を設置し捜査を開始しました。
店への照会により、女性は「ラン」という源氏名で働いていたことが判明。北新宿のアパートに住む大阪市此花区出身のYさん(33歳)と特定されました。Yさんは2年前の4月に入店していましたが、履歴書の情報をもとに大阪府警や大阪市に照会したところ、「該当する人物はいない」との回答があり、捜査は難航します。
不審な男性の存在と捜査の進展
Yさんは20日午前1時20分頃、男性と一緒にチェックインし、宿泊代8500円を前払いしていました。同日午前7時頃、その男性が一人で退出するのを4階のエレベーター付近で従業員が目撃していますが、その際、男性は顔を隠すような仕草を見せていたといいます。司法解剖の結果、死亡推定時刻は午前2時頃、死因は首を絞められたことによる窒息死と判明しました。Yさんは19日午後11時45分頃に勤務先を退勤し、近くの飲食店で食事をとった後、ホテルに入ったと推測されています。また、当日受け取っていた日給7000円がなくなっていたことも明らかになりました。
捜査本部は、Yさんが最後に接客したのは「都内の私立大学生」と名乗る3人組であったことや、店にかかってきた男性からの電話で口論になっていたという情報も突き止めました。現金が奪われていることから、金銭トラブルが事件の背景にあるという見方も浮上しました。
謎に包まれた被害者の過去
身長151センチ、体重46キロの痩せ型だったYさんの身元特定作業も進められました。しかし、住んでいたアパートには預金通帳や手紙など、身元に関する手がかりとなるものは見当たらず、同居していた飲食店従業員(23)への捜査でも、Yさんが過去について多くを語らなかったことが判明しました。
読売新聞(昭和56年3月22日付)によると、「五十四年八月に同居して以来、何度か出身地を聞いたが、大阪出身というばかりで過去については口をつぐんだままだったという。事件発生以来、二日間の捜査でようやくわかったのは、五十三年三月に長野市内のサロン、同年十月には新宿のサロンに勤めていたことだけ。写真もきらいだったらしく、本部では台所の天井裏に古道具類といっしょに投げ込まれてあった二枚をようやく見つけだした」と報じられています。
これらの写真を公開して情報提供を募るとともに、さらなる捜索の結果、部屋にあったサマードレスの間からメモが発見され、そこに本名や関西地方に住む実母らの電話番号が記されていました。その結果、被害者は昭和52年10月に夫と子ども一人を置いて家出中だった、埼玉県所沢市の主婦(45)であることが判明しましたが、これ以上の捜査の進展は見られませんでした。
終わりに
歌舞伎町のホテルで発生したこの未解決殺人事件は、昭和の時代における繁華街の闇と、個人の複雑な背景が捜査を一層困難にすることを示しています。防犯カメラが普及していなかった当時、犯人はホテルの奥深くへと姿を消し、その正体は謎に包まれたまま、事件は時効を迎えました。現代の高度な捜査技術があれば、異なる結末を迎えたかもしれないこの事件は、未解決事件の教訓として今もなお語り継がれています。





