昭和56年、日本の歓楽街の中心である新宿・歌舞伎町で発生した連続ホテル殺人事件は、社会に大きな衝撃を与えました。この未曾有の事態に対し、警視庁捜査第一課の精鋭たちが動員されましたが、捜査は想像を絶する困難に直面します。被害者の身元特定すら難航し、歌舞伎町特有の事情が捜査の大きな壁となったのです。そして、捜査が進展しない中、事態は最悪の展開を迎え、“第三の事件”が発生することになります。本稿では、この「歌舞伎町ホテル連続殺人事件」の舞台裏で何が起きていたのか、その詳細を深く掘り下げていきます。
捜査の壁:現代との隔たりと繁華街の特殊性
現代の犯罪捜査では、ホテルの入口やロビー、建物の外周に設置された防犯カメラがまず活用されます。被害者や容疑者を特定し、犯行時間帯を割り出し、歌舞伎町内の防犯カメラをリレー方式で解析することで、二人の行動履歴が洗い出されます。さらに、最寄り駅の改札記録や周辺を走行するタクシーのドライブレコーダー映像の解析など、SSBC(捜査支援分析センター)が初動捜査で容疑者の姿と行動を迅速に割り出すことが可能です。しかし、昭和56年当時は、このような高度な捜査支援システムは存在しませんでした。
事件の舞台となった繁華街のホテルでは、旅館業法で宿泊者名簿の作成が義務付けられているものの、実際の運用は大きく異なりました。急な立ち入り検査に備えて客室にメモ用紙を置くホテルはあっても、宿泊客に宿帳への記入を求めることはほとんどありませんでした。これは、さまざまな「目的」や「事情」を抱えた人々が利用する場所であるという特性上、利用者のプライバシーを重視する傾向が強かったためです。
また、従業員は必要最小限で、フロントでも客と顔を合わせないように配慮されているケースが多く見受けられました。建物内の照明は暗く、ホテルが密集する地域全体が薄暗い雰囲気であるため、捜査の基本である「聞き込み」捜査も極めて困難でした。事件の目撃情報が集まりにくい環境は、初動捜査において致命的な課題となります。
身元特定と交際関係の迷宮
第一事件のように、夜の街で働く人々の中には、他人に知られたくない過去を持つ者が多く、身元の正確な特定には多大な時間を要しました。交際中のカップルであれば、どちらかの身元が判明すれば関係先の捜査から相手を特定できますが、行きずりのようなその場限りの関係の場合、相手を追跡することは非常に困難でした。事実、第二事件の被害者の身元は、最後まで判明しないままでした。
元社会部記者が語るところによれば、「二つの事件とも、被害者は頭まで布団をかけられていました。第二事件では衣服なども持ち去られていることから、犯人は被害者と顔見知りではないかという見立てもありましたが、第二事件は最後まで身元が分からず終いです。また並行して、累犯前科者や変質者を追う捜査も展開されましたが、こちらも有力な線は出ません。第二事件では、犯人らしき男を現場近くから中野まで乗せたというタクシーの通報がありましたが、こちらも犯人には結びつきませんでした」と、捜査の難航ぶりがうかがえます。
事件現場周辺のイメージ写真、犯人の行方は依然として不明
薬物と巡回パトロールのジレンマ
両事件に共通して検出されたのは「覚せい剤」の存在でした。シーツや被害者の浴衣から覚せい剤成分が検出されたにもかかわらず、被害者に注射痕はなく、また第一事件の被害者に薬物による前科・前歴もありませんでした。このことから、犯人が被害者に鼻や口から覚せい剤を吸わせた可能性が浮上し、覚せい剤の入手経路や薬物に関連した不審者の捜査も並行して行われました。
当時、歌舞伎町や隣接する大久保地区には多くのホテルが密集しており、防犯のための警察官やパトカーによる巡回強化は困難を極めました。警察官が頻繁に姿を見せることで、客がホテルを利用しにくくなるという、繁華街特有のジレンマがあったためです。このような場所の特殊性から、通常のパトロールすらままならない状況でした。
迫り来る“第三の事件”
連続殺人事件の捜査が難航を極める中、事態はさらに深刻な局面を迎えます。昭和56年6月14日の午後6時35分ごろ、第二事件の現場からほど近い歌舞伎町二丁目のホテルに男女がチェックインしました。約1時間後、フロントに男の声で「これから帰る」という電話が入ります。
片付けのために女性従業員2人が2階の「箱根の間」に向かうと、男が顔を下に向けて小走りで通り過ぎていきました。部屋を確認した一人の従業員が目にしたのは、仰向けで何も身に着けずにベッドに横たわる女性の姿でした。そして、その首にはストッキングが巻き付いていたのです。これが、捜査本部にとって最悪の展開ともいえる、“第三の事件”の発生でした。
歌舞伎町のホテル連続殺人事件は、繁華街が持つ光と影、そしてその特殊な環境が、いかに捜査を複雑にし、困難に陥れるかを如実に示しました。現代の高度な捜査技術がなかった当時、警察官たちは多くの壁にぶつかりながらも、必死に犯人を追いました。この事件は、未解決のまま時が流れてしまいましたが、昭和の犯罪史に残る特異な事件として、今もなお多くの教訓を残しています。





