江戸時代の闇:品川にひっそりと残る鈴ヶ森刑場跡を訪ねる

東京都品川区の一角、交通量の多い国道沿いに、江戸時代に多くの罪人の最期を見届けた歴史的な場所がひっそりと存在しています。かつて江戸を代表する三刑場の一つであった鈴ヶ森刑場の跡地です。この場所は、1651年(慶安4年)に設置されてから明治初期まで約220年間にわたり使用され、八百屋お七や天一坊など、歴史上の有名な人物を含む数多くの人々がここで処刑されました。現代の喧騒の中にありながら、その静かで重々しい佇まいは、過去の悲惨な出来事を今に伝えています。フリーライターの友清哲氏が訪ねたこの因縁深い地の背景を探ります。

現代の品川に佇む歴史の遺構

大井競馬場にもほど近い品川区のこの地は、かつての東海道沿いに位置しており、江戸時代から人々の往来が盛んな場所でした。現在も国道15号線として昼夜を問わず多くの車が行き交いますが、そのすぐ脇に鈴ヶ森刑場跡は静かに鎮座しています。日中に訪れれば単なる史跡に見えるかもしれませんが、夕暮れ時になると、その雰囲気はより厳かなものとなります。

敷地は決して広大ではありません。江戸中期の記録では間口40間(約74メートル)、奥行9間(約16.2メートル)とされていますが、周辺の開発が進んだ現在では、さらに狭いスペースが残されているのみです。しかし、敷地内に一歩足を踏み入れると、歴史の重みが感じられます。厳重に囲われているわけではなく、誰でも自由に見学できますが、敷地内にはかつてここで執行された残虐な刑罰を偲ばせる、火あぶり台や磔(はりつけ)台の遺構が目に飛び込んできます。

東京都品川区にある鈴ヶ森刑場跡の石碑と入り口付近。東京都品川区にある鈴ヶ森刑場跡の石碑と入り口付近。

残酷な江戸時代の刑罰:晒し首、磔、火刑

江戸時代の刑法では、現代のような長期の禁固刑や懲役刑はほとんどなく、牢獄は主に未決囚を収容する場所でした。罪が確定した囚人は、比較的軽い罪であれば島流しや追放などの遠島・追放刑に、より重い罪に対しては死罪が直ちに執行されるのが一般的でした。

死罪の中でも、罪の重さに応じて段階がありました。より重い罪に適用されたのが「獄門」、「磔」、「火あぶり」といった刑です。

晒し首(獄門)

獄門とは、斬首刑で命を絶った罪人の首を一定期間 publicly 展示する刑罰です。戦場で討ち取られた敵将の首や、自害した罪人の首を刎ねて晒す場合もあり、見せしめの意味合いが強い刑でした。

磔(はりつけ)

磔は文字通り、罪人を十字架型の柱に縛り付け、執行役が槍で複数回突き刺して死に至らしめる刑です。多量の出血と激しい痛みを伴う極めて残酷な処刑方法であり、刑執行後も死体が数日間にわたって晒されることも珍しくありませんでした。

火あぶり(火刑)

火あぶりは、磔刑よりもさらに重い罪、特に放火犯などに対して適用されることが多かった極刑です。罪人を磔台に縛り付けた状態で、足元に薪を積んで火をつけ、焼き殺しました。この刑もまた、見せしめのために大勢の見物人が集まる中で行われました。火あぶりは即死に至ることが少なく、罪人は数分間にわたり熱さと火傷に苦しみ、最終的には自らの身を焼く煙を吸い込んで窒息死することが多かったと記録されています。

この鈴ヶ森刑場跡で、実際に火あぶりの刑に処された人物として特に有名なのが、「恋焦がれて放火した」という伝承で知られる八百屋お七です。彼女の悲劇的な最期も、この場所で迎えられました。

鈴ヶ森刑場跡が伝えるもの

現代に生きる私たちにとって、江戸時代の過酷な刑罰は想像し難いものです。しかし、品川区の賑やかな国道沿いに今も残る鈴ヶ森刑場跡は、そうした歴史の暗部が生々しく刻まれた場所として、静かに佇んでいます。かつて多くの命が絶たれたこの地は、訪れる者に歴史の重みと、時代の変化に伴う社会や刑罰制度の移り変わりについて深く考えさせる貴重な機会を与えてくれるでしょう。現代日本に暮らす中で、過去の出来事を忘れないための重要な史跡と言えます。