裁判官はなぜ「消極的」なのか?元裁判官が明かす裁判所の限界と「具体的な紛争」の真意

裁判官は法律で許された範囲内でしか判断を下せず、訴えられた内容以外について自由に意見を述べることはできない。日本の裁判所がなぜ時に「消極的」に見えるのか、その背景には法的な制約がある。本稿では、元裁判官である井上薫氏の著書『裁判官の正体 最高裁の圧力、人事、報酬、言えない本音』から、裁判官の権限と裁判所の役割の根幹にある原則を読み解く。これは、単なる法律論ではなく、私たちの社会生活と密接に関わる「裁判」という仕組みの理解を深める上で重要な視点を提供する。

日本の裁判所のイメージ画像日本の裁判所のイメージ画像

裁判は決して他人事ではない

「裁判沙汰」と聞くと、多くの善良な市民は自分とは無縁の特別な出来事と考えがちである。しかし、現実にはそうではない。例えば、袴田事件のように、警察の捜査の過程で無関係の人物が死刑囚にされてしまうという、私たちの身に起こりうる可能性を完全に否定できない状況がこの国には存在する。このような事態からもわかるように、裁判は決して遠い存在ではなく、誰もが巻き込まれる可能性を秘めているのだ。

裁判の定義と「公権的裁定」

では、そもそも「裁判」とは何なのか。一般的に、裁判とは「具体的な紛争を解決するためになされる公権的な裁定」と定義できる。これは物事の善悪や可否を判断し決定することだが、その前提として「具体的な紛争」が存在する必要がある。例えば、貸したお金が返ってこない、離婚したい、犯罪行為があったので処罰したい、といった現実の人間関係で生じる具体的な争いだ。

そして、その紛争を解決するために国の機関である裁判所が行うのが裁判である。地域や団体の顔役が当事者の意見を聞いて判断を示すといった場面は日常生活にもあるが、これは裁判とは異なる。なぜなら、それは「公権的」なものではないからだ。具体的な紛争に対して、裁判所という国の機関が下す判断こそが「裁判」なのである。

裁判で扱うための条件:「具体的な紛争」の特別な意味

ここで、裁判所の役割を理解する上で非常に重要な「具体的」という言葉について詳しく見てみよう。この言葉は、国語辞典的な意味合いとは異なり、法律の世界では特定の意味を持つ。それは、紛争の当事者の「権利」や「義務」に直接関係する、という趣旨だ。裁判の結論、つまりどちらが勝つか負けるかによって、当事者の権利が発生したり消滅したり、あるいは義務が生じたりなくなったりする場合にのみ、「具体的」という条件を満たすとされる。

裁判所が判断できないこと:抽象的な争い

したがって、当事者の権利や義務に影響がない、より抽象的な事柄については、裁判所は判断を下すことができない。例えば、新しくできた法律が憲法に違反していると宣言してほしい、という訴訟が提起されたとしても、それが具体的な権利侵害を伴わない抽象的な主張であれば、裁判所はこの「具体的」という条件を満たさないとして、取り上げて判断することはできないのである。

学問上の争いも同様だ。歴史上の有名な事件である本能寺の変における明智光秀の動機について、歴史学者の間で様々な説があり、統一された見解がないとする。その動機は何かを裁判所に訴えて決めてもらおうとしても、これは当事者の権利や義務に関係しないため、裁判の対象にはなり得ない。

抽象的な議論ではなく具体的な事案を扱う裁判所のイメージ抽象的な議論ではなく具体的な事案を扱う裁判所のイメージ

同様に、アインシュタインが提唱した相対性理論の正しさを判定してほしい、あるいは自分が解いた数学の問題の答えが正しいかどうかを判定してほしい、といった訴えも、ここでいう「具体的な紛争」には該当しない。裁判所は、あくまで当事者の権利義務に関わる現実の紛争にのみ判断権限を持つ機関なのである。

結論:裁判官の限界は「具体的な紛争」にあり

日本の裁判官や裁判所が時に「消極的」と見られるのは、彼らが法によって厳格にその判断範囲を制限されているからである。裁判所が扱うことができるのは、当事者の権利や義務に影響を及ぼす「具体的な紛争」の解決に限られる。憲法適合性、学術的真理、科学的正しさといった抽象的な問題は、たとえ社会的に重要であっても、直接的に個人の権利義務に関わらない限り、裁判所が判断を下す権限を持たない。この「具体的な紛争」という要件こそが、裁判所の役割と限界を規定する根幹にある原則なのである。

参考文献

井上 薫『裁判官の正体 最高裁の圧力、人事、報酬、言えない本音』(中央公論新社)