「どうせ自分なんか…」と嘆く若手へ:聖書に学ぶ「愛されている」自己肯定感の育み方

現代社会、特に日本の若者たちの間で「どうせ自分なんか…」といった口癖や、満たされない承認欲求に苦悩する声が増えています。彼らはしばしば「愛されていない」「認められていない」と感じ、自信を失いがちです。このような状況は、メンタルヘルスや社会参加にも影響を及ぼす深刻な問題として認識されつつあります。では、彼らの心の叫びに、私たちはどのように向き合えばよいのでしょうか。本稿では、キリスト教の聖書、特にイエスの愛弟子であったヨハネの生き方を通して、健全な自己肯定感を育むヒントを探ります。

ヨハネは、イエスの12使徒の中でも特異な存在です。他の多くの使徒が信仰のために殉教する中、彼だけは天寿を全うしたとされています。彼が著したとされる『ヨハネの福音書』には、ある特徴的な表現が繰り返し登場します。それは「主に愛された弟子」「イエスが愛しておられた弟子」という記述です。

憂いを帯びた表情で下を向く若者のイメージ写真。承認欲求や自己肯定感の悩みを示唆する。憂いを帯びた表情で下を向く若者のイメージ写真。承認欲求や自己肯定感の悩みを示唆する。

「イエスに愛された弟子」と記し続けたヨハネの真意

この「イエスに愛された弟子」という表現を初めて読んだ時、多くの人は「なんて自己中心的なのだろう」「ナルシストではないか」と感じるかもしれません。しかし、これは単なる自惚れとは異なります。ヨハネは、イエスが自分を特別に愛してくれたという事実を、誰よりも深く心に刻み、感謝し、大切に思っていたことの表れだと解釈できます。

近年のリベラルな聖書解釈では、『ヨハネの福音書』を実際に書いたのはヨハネ自身ではなく、彼の弟子たちが師の偉大さを強調するためにこのような表現を用いたという説もあります。しかし、伝統的な解釈では、この福音書の著者はあくまでヨハネ自身であり、彼が自らを「主に愛された弟子」と自認していたとされています。この自己認識は、私たちが現代社会で抱える「承認欲求」の問題を考える上で、重要な示唆を与えてくれます。

現代の「承認欲求」の誤解と健全な自己認識

現代の日本では、「私は愛されている」「私は認められている」と公言すると、「自己愛が強い」「承認欲求が過剰だ」といったネガティブな印象を持たれがちです。しかし、世界的に見れば、「私は愛されている」という自己認識は、むしろ肯定されるべき健全なものとされています。

私たちは往々にして「承認欲求」という言葉をネガティブなものと捉えがちですが、適切な承認欲求は人間の基本的な欲求であり、心の健康に不可欠です。ヨハネの「私は愛されている」という自己認識は、「自分は確かに承認されている」という健全な状態の表れであり、単純なナルシシズムとは一線を画します。

SNSやインターネット掲示板で見られるような過度な、あるいは不適切な承認欲求は、「自分は十分に承認されていない」という不満や欠乏感の裏返しであることがほとんどです。この不満が、いわゆる「迷惑系」と呼ばれるような、世間の注目を集めるための歪んだ行動へと繋がってしまうこともあります。その点、「自分は確かに愛されている、承認されている」と自認できている人は、精神的に非常に強いと言えるでしょう。

「自分は誰にも承認されていない」「誰にも愛されていない」と感じている人は少なくありません。キリスト教を信じていない方にとっては「慰めにすぎない」と感じるかもしれませんが、聖書やキリスト教の核となるメッセージは、まさにそのような人々をこそ神が、そしてイエス・キリストが愛し、承認しているというものです。

「たとえ他の誰もがあなたを愛さなくても、私はあなたを愛している。あなたのためなら、私の命さえも投げ出そう」——これほど強い愛のメッセージが、他に存在するでしょうか。そして、本当に自らの身を十字架に架けてしまうほどの愛が、他にあるでしょうか。

ヨハネの人生を支えた「命を投げ出すほどの愛」

ヨハネは、イエスの十字架刑をその真下で目撃した数少ない人物の一人です。彼は、他のどの弟子よりも、この「自分のために命を投げ出すほどの愛」を肌で感じ、強く体験したのかもしれません。だからこそ、ヨハネはあえて自らを「主に愛された弟子」と呼び、その愛を生涯にわたって強調し続けたのではないでしょうか。

このヨハネの物語は、私たちに深い示唆を与えます。他者からの承認を渇望するばかりではなく、まずは「自分は愛されている存在である」という根本的な自己認識を持つことの重要性です。この認識こそが、私たちが困難な状況に直面しても、健全な精神を保ち、人生を力強く生き抜くための基盤となるのです。若者たちが抱える「どうせ自分なんか…」という絶望感を乗り越え、自己肯定感を育む上で、ヨハネが体現した「愛されている」という確信は、現代社会においても計り知れない価値を持つと言えるでしょう。


参考文献