1985年8月12日、群馬県御巣鷹山の尾根に日本航空123便が墜落し、520人もの尊い命が失われるという史上稀に見る悲劇が発生しました。しかし、この絶望的な状況の中、奇跡的に4人の生還者が存在しました。ジャーナリスト米田憲司氏の新刊『日航123便事故 40年目の真実』(宝島社)に基づき、当時現場で何が起こり、どのようにして生還者が発見・救出されたのか、その知られざる詳細に迫ります。これは、単なる事故報告に留まらず、人間が直面する極限状態と、それに立ち向かった人々の姿を描き出すものです。
御巣鷹山での生還者発見:奇跡を現実にした瞬間
日航123便墜落事故発生から一夜明けた8月13日午前10時45分頃、墜落現場の「スゲノ沢」で、長野県警レスキュー隊員(柳沢賢二、深沢達行)が瓦礫の中で動くものを発見しました。逆さまになった後部胴体から滑り落ちた機体残骸の隙間から、彼らは奇跡の光景を目にします。近くにいた上野村の猟友会や消防団員と共に急勾配を駆け下りると、そこには手を振る人影がありました。
声をかけても反応はありませんでしたが、その手は確かに動いていました。レスキュー隊員が「もう大丈夫、手を振らなくていいから」「名前は?」と問いかけると、紺地に白い水玉模様のブラウスを着た女性が「スチュワーデスの落合由美です」と答えたのです。彼女を機体残骸から引き出すと、さらにその奥に、吉崎博子さんと美紀子ちゃんの親子、そして後に川上慶子さんが発見されました。川上さんは短い髪をしており、当初は男の子と間違えられ「ボク、大丈夫か」と声をかけられたといいます。足のふくらはぎに怪我を負っていましたが、その場にいた堀川守さんら関係者は「本当に奇跡だなぁ」と口々に語りました。
日航123便墜落事故の御巣鷹山現場で、犠牲者を悼む遺族が手向けた品々
困難を極めた救出活動と現場の声
生還者が発見されたスゲノ沢はヘリコプターが着陸できないほどの急峻な場所であり、彼らを約200m離れた尾根まで運び上げる必要がありました。消防団員たちは後部胴体のドアを担架代わりに用い、山仕事に慣れた堀川さんらは鉈で小喬木を切り開きながら、急斜面を4人の生還者を運び上げました。しかし、尾根に寝かされた生還者を救出する自衛隊のヘリコプターは2時間以上も現れず、現場には緊迫した空気が流れていました。
堀川さんが隊長らしき人物に「いつ、連れて行くんだ」と問い詰め、消防団員は怒りにも近い声で自衛官に罵声を浴びせました。救援に派遣されていた日本赤十字の看護師も「この人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね」と厳しい表情で訴えたといいます。午後1時20分、ようやくヘリコプターへの収容が始まり、川上慶子さん、吉崎博子さん、美紀子ちゃん、落合由美さんの順で搬送されました。この時、彼らの名前はまだ知られていませんでした。
前夜から県警機動隊の案内をしていた林業労働者たちは、口々に当時の状況を語っています。「とにかく、機動隊は足が遅くて…。山に登ったことがないんだよなぁ。案内していても時間ばかりかかって、何やってんだという感じだった。それにわれわれのいうことをいっさい聞かない。われわれの助言を聞いていたら、何人助かったかどうか分からんけど、もっと早く墜落現場にたどりついていた」という彼らの証言は、当時の救助活動における連携の難しさを物語っています。
報道現場の緊迫と生還者搬送の瞬間
記者が堀川さんの自宅でテレビ中継を見ていた際、フジテレビが一社で救出の様子を報じていたことを後で知ります。山が深く携帯無線機は役に立たず、「特オチ」を恐れる編集局次長の言葉に、当初は全員死亡だと考えていた記者は気のない返事をしていました。しかし、テレビで生還者の姿が中継されるのを見て、「これは大変なことになった」と唸り、取材の練り直しを余儀なくされます。同時に、現場にいる記者が取材できているかという不安もよぎりました。
中継には、習志野空挺団の作間優一二曹に抱えられ、ヘリに収容される川上慶子さんの姿が映し出されていました。作間二曹が「大丈夫」「助かったよ」と声をかけて励ます様子が伝わり、その場の緊迫感と希望が入り混じった光景は多くの人々の心に刻まれました。その後、上野村の対策本部へ向かった記者に、生還者が上野村の総合グラウンドにヘリで搬送されてくるという連絡が入りました。グラウンドでは「生存者は8人」という未確認の情報も流れ、「すごいなぁ。よく生きていたなぁ」との思いが交錯する中で、世紀の生還劇の幕が閉じたのです。
まとめ:日航機事故の教訓と奇跡の記憶
日本航空123便墜落事故における4人の生還は、まさに絶望の中の奇跡であり、その発見と救出の裏には、多くの人々の献身的な努力と、時には困難を伴う現場の状況がありました。長野県警レスキュー隊員、猟友会、消防団、そして日本赤十字の看護師など、様々な立場の関係者が協力し、極限の状況下で命を救おうと奮闘したのです。一方で、救助隊の到着の遅れや連携の課題が浮き彫りとなり、その後の災害対応における重要な教訓となりました。
この悲劇の中で生まれた奇跡は、改めて命の尊さ、そして困難な状況下での人間のレジリエンス(回復力)を私たちに教えてくれます。また、当時の報道が果たした役割や、現場の生の声が後世に伝えるべき貴重な記録となるでしょう。
参考資料
- 米田 憲司 著『日航123便事故 40年目の真実』宝島社
- 時事通信社 (写真提供元)
- 文春オンライン (ウェブ記事掲載元)