日航機墜落40年:元陸幕長・岡部俊哉氏が語る御巣鷹の尾根の惨状と生存者の奇跡

1985年8月12日、日本の航空史上最悪の事故として刻まれる日本航空123便墜落事故が発生しました。羽田発・大阪行きの同機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、520人もの尊い命が犠牲となりました。当時26歳だった陸上自衛隊第一空挺団の小隊長、岡部俊哉氏(現・元陸上自衛隊幕僚長、66歳)は、事故翌日に「戦場」と化した墜落現場へと降り立ちました。あれから長い歳月が流れましたが、岡部氏の脳裏には今なお「焼け焦げた臭い」と現場の凄惨な光景が焼き付いているといいます。この未曽有の大惨事の現場で活動した岡部氏の体に起きた異変、そして彼が見た地獄と奇跡の記憶を、詳細に振り返ります。

都内でのインタビューに応じる元陸上自衛隊幕僚長・岡部俊哉氏。日航機墜落事故の記憶を語る。都内でのインタビューに応じる元陸上自衛隊幕僚長・岡部俊哉氏。日航機墜落事故の記憶を語る。

「ぐにゅ」の感触:御巣鷹の尾根への降下

1985年8月13日、事故翌朝の午前5時。通常の起床ラッパとは異なる「命令受領ラッパ」が鳴り響き、岡部氏は跳ね起きました。災害派遣であることを悟った彼は、すぐに出動準備に取り掛かります。大型ヘリコプターV-107に乗り込み、午前8時前には離陸。計6機のヘリのうち、岡部氏は小隊長として3番機に搭乗していました。

午前8時40分、ついに「御巣鷹の尾根」上空に到着。ヘリからロープを使い、3番機から最初に降下した岡部氏の足が地面に着いた瞬間、彼は「ぐにゅっ」とした異様な感触を覚えました。その違和感の正体は、無残にも散乱した「人の耳」でした。その瞬間、岡部氏は「申し訳ありません!」と心の中で深く謝罪したといいます。この冒頭の衝撃的な体験は、彼にとって現場の想像を絶する状況を象徴するものでした。

木々に残された惨状:「地獄」と化した墜落現場

1985年8月、御巣鷹の尾根に墜落した日本航空123便の事故直後の上空からの惨状。1985年8月、御巣鷹の尾根に墜落した日本航空123便の事故直後の上空からの惨状。

山の斜面に降り立った岡部氏の目に飛び込んできたのは、まるで爆撃を受けたかのように倒れ、焼け焦げた木々、そして現場全体に立ち込める異様な焼け焦げた臭いでした。第一空挺団に課せられた任務は、まず地形の偵察と生存者の救出。午前9時半頃から捜索活動を開始しましたが、目の前に広がるのはまさに「地獄」でした。

生存者を見つけるため「動いてください」「声を出してください」と呼びかけながら捜索を進めるも、そこにあったのは手や足といった部分的な遺体ばかりで、原型を留めた遺体は一つもありませんでした。焼け焦げて座席と一体化してしまった遺体も多数確認されました。岡部氏は「真っ赤な色をした木を触ってしまい、よく見ると肉片が付着したものでした。木の上には髪の毛のある頭皮や内蔵までぶらさがっていました。とにかく精神的に耐えられる状態ではなく、『職業選択を間違えた』とまで思いました」と、当時の極限状態を振り返ります。自衛隊員として数々の訓練を経験してきた彼でさえ、この惨状には精神的な限界を感じたのです。

陸上自衛隊第一空挺団が撮影した、墜落現場の凄惨な様子。木々に絡みつく残骸。陸上自衛隊第一空挺団が撮影した、墜落現場の凄惨な様子。木々に絡みつく残骸。

奇跡の生存者発見:絶望の中の一筋の光

捜索開始から約1時間が経過した午前10時45分頃、無線から「生存者発見」という信じられない一報が入りました。しかし、現場の凄惨な状況を目の当たりにしていた岡部氏は、その報に混乱を覚えたといいます。「人間は皆ぼろぼろなのに、なぜ転がっているぬいぐるみは綺麗な状態なのか…」。彼には、この「生存者発見」の報が、何か信じがたい「間違いではないか」とさえ感じられたそうです。

半信半疑のまま、生存者が運ばれてくる集合場所へと向かった岡部氏。そこで彼が見たのは、奇跡的に助かった子どもを含む4人の生存者でした。生存者たちは尾根からワイヤーを使ってそれぞれヘリコプターに吊り上げられ、救助されました。全員の救助が完了したのは午後1時半頃。この絶望的な現場における奇跡的な生存者の発見は、多くの人々に希望を与え、その後の事故調査にも大きな意味を持つこととなりました。

日本航空123便墜落事故現場で、生存者をヘリコプターへ吊り上げる救助活動を行う自衛隊員。日本航空123便墜落事故現場で、生存者をヘリコプターへ吊り上げる救助活動を行う自衛隊員。

深まる記憶の傷跡:心理的影響とその後の闘い

凄惨な墜落現場での救助活動を終え、基地へと戻った岡部氏の体には、ある「異変」が起きていました。肉体的な疲労はもちろんのこと、嗅覚に焼き付いた「焼け焦げた臭い」、脳裏に深く刻まれた夥しい遺体の記憶、そして極限状態での精神的なストレスは、彼の心身に大きな影響を与えていたのです。

当時の日本ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念がまだ十分に認知されていませんでしたが、岡部氏が経験したのは、まさにそれに近い心理的な影響でした。彼はこの経験について、「職業を間違えた」とまで語るほど、深く苦悩しました。この事故から40年近くが経った今もなお、当時の記憶は鮮明に残り、自衛隊員として国難に際して活動する者の計り知れない心理的負担を浮き彫りにしています。彼のような経験をした多くの自衛隊員や救助関係者が、見えない傷と闘いながら、日本の安全と安心のために尽力している現実を、私たちは知るべきでしょう。

結び

日本航空123便墜落事故は、多くの命が失われた悲劇であると同時に、岡部俊哉氏のような自衛隊員の献身的な救助活動と、絶望の中での奇跡的な生存者の存在を私たちに教えてくれました。岡部氏の証言は、単なる過去の出来事の記録に留まらず、災害現場の過酷さ、人命救助の尊さ、そして人々の心に残る深い傷跡を浮き彫りにします。この記憶を風化させることなく語り継ぐことは、未来の災害対応や人々の心のケアを考える上で極めて重要です。日本ニュース24時間では、今後もこのような歴史的事件の真実に迫り、多角的な視点から情報をお届けしてまいります。

参考資料