連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚の肖像
時代の大きな転換期には、社会を深く揺るがすような難解な事件が発生すると言われます。1988年(昭和63年)から翌1989年(平成元年)にかけて日本中を震撼させた「宮崎勤事件」、通称「連続幼女誘拐殺人事件」も、まさにそのような出来事でした。東京都五日市町(現在のあきる野市)に居住していた宮崎勤死刑囚(2008年6月17日に死刑執行、享年45)は、当初埼玉県内で犯行を重ねていましたが、その捜査が行き詰まる中、東京都内での犯行がきっかけとなり逮捕に至ります。昭和と平成という二つの時代をまたぎ、日本社会に深い傷跡を残したこの一大事件の初期段階、特に埼玉県での捜査の困難さに焦点を当て、その背景を紐解きます。
時代の転換期を象徴する未曽有の事件
1980年代後半、日本はバブル経済の絶頂期を迎え、一方で社会の価値観が大きく変動する転換点にありました。その中で発生した宮崎勤事件は、従来の犯罪の枠に収まらない異質性から、日本社会に未曽有の衝撃を与えました。連続して幼い女児が誘拐され、殺害されるという残忍な手口は、国民の間に深い不安と恐怖を植え付けました。宮崎死刑囚の行動は不可解な点が多かったため、当時の捜査機関は手探りの状態が続きました。特に、事件の初期段階で犯行が集中した埼玉県では、警察の捜査は多くの課題に直面し、時間だけが過ぎていく状況でした。
埼玉県西部で相次ぐ幼女失踪:最初の犠牲者Aちゃん
事件の発端は、昭和63年8月22日の埼玉県入間市での出来事でした。午後3時過ぎ、Aちゃん(当時4歳)が「友達の家に遊びに行く」と告げて自宅を出たまま行方不明になりました。近隣住民も総出で捜索しましたが発見されず、母親からの110番通報を受け、所轄の狭山警察署は身代金目的誘拐の可能性を視野に入れ、当直員を「秘匿潜入」させるなどの初期捜査を開始しました。しかし、脅迫電話は一切なく、Aちゃんも発見されないまま夜が明けてしまいます。翌日、埼玉県警捜査第一課の捜査員や機動隊も投入され、周辺の河川などを広範囲に捜索しましたが、手がかりは見つかりませんでした。Aちゃんの自宅近くには、著名な民放アナウンサーが住んでおり、彼も捜索に積極的に協力し、地域の自治会放送で自ら「Aちゃん、お家に帰りましょう」と呼びかけましたが、願いは叶いませんでした。
Bちゃん、Cちゃんの失踪と捜査の壁
同年10月3日には、飯能市に住むBちゃん(当時7歳)が、午後3時頃に自宅付近から行方不明になりました。いわゆる「鍵っ子」であったBちゃんは行動範囲が広く、両親や学校教員も捜索しましたが発見に至らず、午後10時40分に父親が110番通報しました。入間市のAちゃん失踪から1カ月半が経過しており、関連性や身代金誘拐の可能性を念頭に、飯能警察署員と捜査第一課員が秘匿潜入で体制を敷きましたが、やはり脅迫電話はなく、翌日には公開捜査へと切り替わりました。この頃、埼玉県西部では幼児の腹部をナイフで刺すという通り魔事件が3件発生しており、地域住民の不安は増大していました(警察庁の刑事教養資料より)。
さらに同年12月9日午後4時30分頃、川越市内に住むCちゃん(当時4歳)が、友人の家から帰宅途中で姿を消しました。川越警察署員と捜査第一課員が秘匿潜入を行いましたが、こちらも脅迫電話はなく、Cちゃんの行方は杳として知れませんでした。
捜査本部の設置と直面した当時の課題
半年余りの間に、埼玉県西部で3人の幼女が相次いで行方不明になった事態を重く見た埼玉県警察は、本部長直轄の総合対策本部を設置し、県西部の11警察署にも「幼女連続行方不明事案総合対策本部」を設置するなど、組織的な捜査体制を強化しました。しかし、肝心の捜査は思うように進展しませんでした。現在のように街中に防犯カメラが多数設置されている時代ではなかったため、手掛かりは乏しく、幼女たちが行方不明になった当日に目撃された不審者や不審車両、あるいは累犯前科者などを洗い出す地道な捜査が続けられました。しかし、決定的な行方は掴めず、有力な容疑者が浮上することもないまま、時間だけが刻々と過ぎていきました。
参考文献
- 「宮崎勤事件」の記事(Yahoo!ニュース)
- 警察庁 刑事教養資料(当時の捜査状況に関する記述を引用)