国家を破滅の淵に追いやった昭和陸軍の構造的な問題は、どのようにして生まれたのか。この問いに深く切り込むため、昭和史研究の第一人者である半藤一利氏、ノンフィクション作家の保阪正康氏、文芸評論家の福田和也氏、防衛大学校教授の戸部良一氏、元陸将補の黒野耐氏といった各界の専門家が集結した特別座談会「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」から、陸軍大臣を務めた杉山元元帥の人物像と、その最期に焦点を当て、帝国陸軍が抱えていた本質的な欠陥を探ります。
杉山元陸軍大臣への多角的な評価
座談会では、杉山元元帥に対する厳しい評価が相次ぎました。黒野氏は、杉山が「不遜な態度」を取りつつも、絶対的な権力で軍を掌握していたわけではなく、「単に時どきの主流派にくっついて泳いで偉くなっただけ」の人物と見ています。これは、彼が強力なリーダーシップを発揮せず、むしろ時流に迎合することで地位を築いた可能性を示唆しています。
半藤氏は、杉山が陸軍大臣在任中に盧溝橋事件が発生した際、陸軍省内を全く統制できなかったことを指摘し、彼に「グズ元」や「便所のドア」(押せばどちらにでも開く、つまり意思が定まらない、他者に流されやすいという意味)という不名誉な渾名がつけられていたことを明らかにしました。この渾名は、彼のリーダーシップの欠如と、組織内の混乱を象徴しています。保阪氏も、敗戦後の1945年9月12日に杉山が自決した時期が、陸軍大臣の阿南惟幾などに比べて著しく遅かったことに注目し、その背後にうかがえる逡巡や周囲の動向をうかがう姿勢を指摘しています。
杉山元元帥の「後始末」と壮絶な最期
しかし、半藤氏は杉山の行動には別の側面があったことも示唆します。敗戦直後から、杉山は前線に出ていた兵士の復員を全て済ませてから自決すると決意していたというのです。これは、円滑な武装解除と復員が暴動を未然に防ぎ、社会の安定に繋がるとの責任感からでした。しかし、この決意を夫人には説明していなかったため、国防婦人会の会長を務めていた夫人からは「早く死ね、早く死ね」と自決を激しく催促されたといいます。杉山夫人は、夫と自身の「戦争責任」を強く感じていたのです。
陸軍省内を統制できず「愚図元」と評された杉山元陸軍大臣
後始末が終わり、「第一総軍司令官としての役割は終わったから、これで死ぬ」と告げ、杉山はピストルを手に自室に入りました。しかし、しばらくしてドアを開け、「このピストルは弾が出ないぞ」と顔を出したという逸話が残されています。副官が安全弁がかかっていることを指摘し、それを外して渡すと、杉山は「今度は大丈夫か」と確認して自決したとされています。このエピソードは、彼の最期が伝統的な武士道の切腹とは異なる、ある種の人間臭い、劇的なものであったことを示しています。保阪氏が「切腹したんじゃないんですか」と問いかけたのも、このような杉山の行動が当時の軍人の「理想的な」自決像と異なっていたからでしょう。
昭和陸軍が抱えた「日本型組織の失敗」
杉山元の事例は、彼個人の性格や判断だけでなく、当時の帝国陸軍、ひいては「日本型組織」全体が抱えていた制度的・構造的欠陥を浮き彫りにします。個々の参謀や現場の暴走を許し、それを統制できない指導部の弱さ、「便所のドア」と評されるほどの主体性の欠如、そして時流に流されやすい体質が、国家を破滅へと導いた一因であったと結論付けられます。杉山元が最後まで職責を全うしようとした背景には、軍人としての責任感が見え隠れするものの、その指導力と組織統制能力の不足は、昭和期の陸軍が抱えていた根深い問題を示唆しています。
参考資料
- 半藤一利, 保阪正康, 福田和也, 戸部良一, 黒野耐. 「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」『文藝春秋』2007年6月号.
- Yahoo!ニュース: 〈「あの七三一部隊の後始末をしたのは俺なんだ」→そのままソ連軍に捕まり…参謀の暴走を許した帝国陸軍の“制度的欠陥”とは〉より抜粋。