日本の文学史に名を刻む歌人、石川啄木。その作品が今もなお多くの人々に愛される一方で、彼が生涯を通じて抱え続けた「借金」という現実と、自らを「天才」と信じて疑わなかった強固な自意識との間の矛盾は、彼の人物像をより深く、複雑なものにしています。生前、その作品が世間で大ヒットすることはなく、むしろ膨れ上がる借金に苦しんだ啄木。本稿では、そんな文豪・石川啄木の知られざる側面、特に彼の金銭感覚と自己認識に焦点を当て、その波乱に満ちた生涯の一端を紐解きます。
明治時代の歌人・石川啄木、若かりし頃の肖像写真
約60人から総計2800万円の借金:破格の負債が語る生活実態
石川啄木は「天才歌人」であると同時に、「借金の天才」とさえ称されることがあります。彼の残した「啄木借金ノート」には、明治37年(1904年)から明治42年(1909年)のわずか5年間で、約60人から総額1372円50銭を借り入れた記録が記されています。当時の1円を現在の2万円と換算する「労賃レート」で計算すると、その額は約2800万円に達します。この事実から、啄木がほとんど借金によって生計を立てていたことが浮き彫りになります。彼の借金人生は明治36年末頃に本格化し、親友である言語学者の金田一京助に15円を借りなければ年越しもままならない状況でした。その後、「故郷」と呼んだ渋民村から盛岡、仙台、北海道、東京へと彼の生活の舞台が移るにつれて、借金もまた雪だるま式に膨らんでいったのです。
処女詩集『あこがれ』の失敗と高まる自意識
明治37年頃の啄木は、まだ強気で、経済的な困窮を微塵も感じさせない振る舞いを見せていました。当時、彼は記念すべき処女詩集『あこがれ』の出版準備を進めており、この一冊で文壇の若きスターに成り上がることを確信していたと言われます。紋付き羽織に、質屋で7円で購入したという仙台平の袴をまとい、最高級の煙草「敷島」をふかしながら移動には人力車を利用するなど、見栄を張った生活を送っていました。しかし、その裏では下宿代や車代は滞納し、下宿のおばあさんからは冷たい視線を浴びる始末でした。友人たちに「石川くんは将来必ず大物になる」と説得してもらい、なんとか居場所を確保するという惨めな現実がそこにはありました。さらに、本人が「東京市長・尾崎行雄の推薦」と触れ回った『あこがれ』の出版も、実際は知り合い3人からの資金援助300円を含む全面的なサポートがあってのこと。そして、多大な期待を背負って世に出たこの詩集は、結果として「大コケ、大爆死」を遂げてしまいます。与謝野鉄幹が主宰する「明星」に投稿する程度の、ほぼ無名の新人の詩集が爆発的に売れないのは当然のことでしたが、啄木は自らを「天才」と信じて疑わず、その天才を支えるのが世間の役割だと固く思い込んでいたのです。
現実逃避と「小児の心」:自己正当化の奇妙な論理
表向きは強気でも、豆腐メンタルの啄木は何かあればすぐに挫折してしまう傾向にありました。そして、厳しい現実から逃避するために彼が溺れたのは、日常的な嘘、そして酒、煙草、女といった享楽でした。しかし、啄木の内には「本当に大丈夫なのだろうか」という葛藤も確かに存在していました。自身の高い自意識と世間の冷たい眼差しの間に不協和音が本格化し始めた明治37年1月頃から、啄木は自身の言動を正当化する奇妙な理論を構築し始めます。そのキーワードは「小児の心」。彼が主張したのは、「私がいくら借金をしようが、踏み倒そうが、浪費しようが、それはまったく問題ない。なぜなら私はまだ幼児なのだから」という、自らを子供に例える謎の理屈でした。これは、彼の深層心理にあった現実への恐れと、自己を保とうとする強い防衛機制の表れと言えるでしょう。
結論
石川啄木の生涯は、崇高な文学的才能と、それに相反するような金銭感覚、そして現実から目を背けがちな人間的な弱さが複雑に絡み合ったものでした。「天才」としての自意識と、決して成功しなかった生前の作品、そして膨大な借金。この矛盾に満ちた側面こそが、啄木という一人の文豪の人間像をより深く、多角的に理解する鍵となります。彼の「小児の心」という自己正当化の論理は、時代を超えて現代に生きる私たちにも、人間が抱える普遍的な葛藤について示唆を与えているのかもしれません。
参考文献
- 堀江宏樹『文豪 不適切にもほどがある話』(三笠書房)