楳図かずおの挑戦:ホラー漫画の第一人者が直面した「戦力外通告」と新たな道

1960年代、ホラー漫画の旗手としてその名を轟かせた漫画家・楳図かずおは、突如として雑誌『週刊少女フレンド』から事実上の「戦力外通告」を受け、そのキャリアは大きな転換点を迎えます。日本における漫画文化の黎明期において、稀有な才能で読者を魅了した彼がいかにしてこの危機を乗り越え、新たな表現の道を切り開いたのか。本稿では、生前の楳図氏自身が読売新聞記者に語った貴重な証言に基づき、漫画家人生における運命的な転機と、当時の彼の仕事ぶり、そして内面の葛藤に迫ります。これは単なる個人のキャリアの物語に留まらず、当時の社会における漫画表現への眼差し、そして芸術としての漫画の可能性を問うものです。

ホラー漫画の巨匠 楳図かずお氏、キャリアの転換点を語るホラー漫画の巨匠 楳図かずお氏、キャリアの転換点を語る

編集部からの衝撃的な宣告:「恐怖マンガは、もう、ない」

楳図かずお氏の運命が大きく変わったのは、1968年初頭のことでした。当時、「恐怖マンガ」の第一人者として活躍していた彼に対し、『週刊少女フレンド』の副編集長N氏が発した言葉は、まさに衝撃的でした。「恐怖マンガは、もう、ないと思うんです」。この言葉の真意について、楳図氏自身も当時、完全に理解できたわけではなかったといいます。恐怖マンガというジャンルそのものが消滅するという意味なのか、あるいは、もはや必要とされていない、という意味だったのか。しかし、彼が自身の描く作品が正当に評価されていないことを痛感したのは明らかでした。この宣告は、単に一つのジャンルが過去のものとされるだけでなく、楳図氏の漫画家としてのアイデンティティそのものを揺るがすものでした。

当時、『少女フレンド』が火付け役となった「こわいマンガ」路線は、他誌にも波及し、「少女スリラー」という空前のブームを巻き起こしていました。しかし、その過熱ぶりに対し、婦人団体や教育関係者などからは、「子どもに悪影響を与える」という批判が日に日に高まっていきました。1968年7月21日の朝日新聞朝刊社会面には、「貸本マンガは妖怪ブーム」と題された記事が掲載され、過熱する少女スリラーブームへの教育的見地からの警鐘が鳴らされています。この記事には、楳図氏の作品「ママがこわい」や、古賀新一氏の「白へび館」といった貸本版の表紙写真が掲載されており、当時の社会の空気が如実に伝わってきます。楳図氏に直接的な批判は届かなかったものの、彼の作品もまた、「俗悪マンガ」という一括りのレッテルを貼られたと振り返っています。

貢献と葛藤:少女漫画界におけるホラーの立ち位置

『少女フレンド』は、楳図かずお氏にとって非常に重要な発表の場であり、彼自身もその部数増加に大きく貢献したという自負がありました。しかし、編集部からの扱われ方には、常に「あまり大事にされてないなあ」という寂しさを感じていたといいます。多忙な時期であっても原稿を取りに来ることは一度もなく、また、人気に見合う原稿料が支払われることも稀でした。これは、ホラー作品が当時の少女漫画の主流とは見なされていなかった現実を物語っています。

それでも楳図氏は、恐怖ものが単発の読み切り作品が当たり前だった時代に、雑誌での連載を勝ち取り、長編作品としてもホラーが成立することを初めて証明したのは自分であると、強い自負を抱いていました。彼の登場が、後の日本のホラー漫画、そして物語性の高いジャンル漫画全体の発展に与えた影響は計り知れません。ホラーが持つ深い心理描写や社会批評性が、単なる「怖い話」に留まらない芸術性を持つことを彼は示し、漫画表現の可能性を大きく広げたのです。

「うろこの顔」:読者との「最後の対決」が示すもの

『週刊少女フレンド』での連載終了が迫る中、楳図氏はもう1作だけ連載することになりました。他の雑誌での仕事も重なり、スケジュールは極めて過酷なものでしたが、それが彼の代表作の一つとなる「うろこの顔」(1968年)です。この作品は、楳図かずお氏の妹・魔子が読者から手紙を受け取るという、実録風の不穏な発端で始まります。手紙の内容は、読者の姉の体が病気で動かなくなり、次第にへび女へと変身しているという恐ろしいものでした。調査に訪れた魔子もまた、想像を絶する事件に巻き込まれていきます。

「うろこの顔」は、そのすべてのページが読者にトラウマレベルの恐怖を植え付ける、楳図ホラー技巧の頂点を極めた作品と言えるでしょう。純粋な恐怖の追求という点では、他の追随を許さないほどの完成度を誇っています。この作品は、彼が『少女フレンド』という舞台で、読者、そして業界に対して挑んだ「最後の対決」であり、自身の表現の核である「恐怖」をどこまでも追求し続けるという、彼の不屈の精神と漫画家としての信念を象徴するものでした。

結論

楳図かずおが1960年代後半に経験した『週刊少女フレンド』からの「戦力外通告」は、単なる一つの雑誌での連載終了以上の意味を持っていました。それは、社会の価値観の変化、漫画表現への批判、そして芸術としての漫画の地位を巡る葛藤の象徴でした。しかし、楳図氏はこの困難な時期にこそ、自身の作家としての本質と向き合い、「うろこの顔」のような純度の高い恐怖作品を生み出すことで、その才能と情熱を改めて証明しました。彼の作品は、当時の少女漫画界に新しい風を吹き込み、長編ホラー漫画というジャンルを確立する礎を築いたのです。この時期の経験が、その後の彼の多様な作品群や、芸術家としての探求へと繋がる重要な転換点となったことは間違いありません。

参考文献

  • 楳図かずお、石田汗太(聞き手)『わたしは楳図かずお―マンガから芸術へ』(中央公論新社)
  • 朝日新聞 1968年7月21日朝刊社会面 記事「貸本マンガは妖怪ブーム」
  • Yahoo!ニュース (元記事:ダイヤモンド・オンライン) 「楳図かずおが衝撃を受けた「恐怖マンガは、もう、ない」編集者の真意とは」 https://news.yahoo.co.jp/articles/b4a274bb5547e8a5f6ff67c4a2867876be866e7f