激動の時代を生き抜いた香淳皇后の生涯が記された「香淳皇后実録」の公表は、その人物像に新たな光を当てています。この歴史的な機会を捉え、皇族をモデルにした小説を多数執筆し、2024年に『皇后は闘うことにした』を上梓した作家・日本大学理事長の林真理子氏が、昭和天皇とのご結婚前の「娘」時代の香淳皇后の知られざる華やかな日々に注目。従来の穏やかなイメージとは異なる、活動的な青春時代が浮き彫りになりました。
作家・日本大学理事長の林真理子氏の肖像。香淳皇后の実録公開により、その生涯を深く掘り下げる。
従来のイメージを覆す香淳皇后の「娘」時代
戦後民主主義の中で育った世代にとって、皇族の妃といえば上皇后さま(美智子さま)の印象が強く、「良子皇后(香淳皇后)は、申し訳ないけれどキャラが薄かった」と林氏は語ります。しかし、「香淳皇后実録」を紐解くことで、彼女が「こんなにアクティブな青春があったのだなというのがまず驚きでした」と、その認識を新たにしたと言います。公表された実録は、香淳皇后の知られざる一面を鮮やかに描き出しています。
皇太子妃決定から「お妃教育」まで
香淳皇后(良子女王)は、1918年(大正7年)1月、わずか14歳で裕仁皇太子(後の昭和天皇)の妃となることが内々に決定しました。翌月には学習院女学部中学科を退学し、宮家内に設けられた「御学問所」で「お妃教育」を受け始めることになります。しかし、この教育期間中も、彼女は皇族や華族の親類と共に、実に華やかな日々を送っていたことが実録から明らかになります。これは、一般的なイメージとは異なる、活動的な皇室の姿を映し出しています。
華やかな社交と多忙な日々の記録
「香淳皇后実録」には、良子女王の青春時代の多岐にわたる活動が詳細に記されています。例えば、1919年5月25日には、「朝香宮(あさかのみや)の招きにより、浜離宮にお成りになる。鳩彦(やすひこ)王(御父邦彦王の弟)・紀久子女王・孚彦(たかひこ)王のほか徳川喜久子と御対面になり、鯔(ぼら)釣りをされ、数尾をお土産とされる」という記述があります。また、1922年4月20日には、「侯爵徳川頼倫(よりみち)邸の南葵文庫にお成りになり、今般来日の英国皇太子の御召艦レナウン号に乗組の軍楽隊歓迎音楽会に臨まれ、各種演奏をお聴きになる」と、国際的な交流の場にも出席していたことが分かります。さらに、同年11月19日には、「朝香宮邸にお成りになる(中略)三女王と共にテニスや舞踏等をしてお過ごしになる」とあり、スポーツや舞踏にも親しんでいたことが伺えます。林真理子氏は、「嫁ぐ前のひとときを、こんなに華やかに過ごしている。普通のお嬢さまのような青春時代が印象的でした」と、その活発さに驚きを隠しません。
日本各地への「御旅行」:知的好奇心の足跡
良子女王は、単に社交に勤しむだけでなく、日本各地への大規模な旅行も経験しています。1923年5月4日からは、「この日より、邦彦王・同妃俔子及び信子女王と共に三重・奈良両県下、京都府下並びに四国・九州地方を御旅行になる」と記録されています。この旅行では、伊勢神宮(三重県伊勢市)や明治天皇陵・昭憲皇太后陵(いずれも京都府)といった歴史的・文化的要地への参拝はもちろんのこと、当時の近代日本の発展を象徴する八幡製鉄所(福岡県北九州市)や、大阪朝日新聞社(現在の朝日新聞大阪本社、大阪市北区中之島)など、産業やメディアの最前線にも足を運んでいました。これは、単なる観光に留まらない、旺盛な知的好奇心と広い視野を持っていたことを示唆しています。
結び
今回公表された「香淳皇后実録」は、これまでの香淳皇后に対する静かで控えめなイメージを大きく覆し、活動的で知的な「娘」時代の魅力を鮮やかに描き出しました。作家の林真理子氏も驚嘆したように、良子女王は皇太子妃となる以前から、華やかな社交、スポーツ、そして日本全国を巡る知的な旅を通じて、豊かな青春時代を送っていたのです。この実録は、近代日本の皇室史に新たな一頁を加え、香淳皇后の生涯をより深く理解するための貴重な資料となるでしょう。読者の皆様には、この機会に香淳皇后の知られざる側面、特にその若き日の輝きに触れていただくことをお勧めします。
参考文献:
- Yahoo!ニュース (AERA): https://news.yahoo.co.jp/articles/47e076f355693a2b4b04f43f22620bb83d10135a
- AERA 2025年10月27日号 (朝日新聞出版)
- 林真理子著『皇后は闘うことにした』(文藝春秋)





