小泉八雲の日本理解を深めた妻セツ:怪談「鳥取の布団」が繋ぐ夫婦の絆と文学創造の源泉

イギリス人の父とギリシア人の母の間に生まれ、アイルランドで育った文豪ラフカディオ・ハーン、日本名・小泉八雲。日本語が堪能ではなかった外国人であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに日本人の心に深く響く日本像を文章化できたのか。その問いに対する鍵は、彼の妻セツにある。異なる文化と言葉を持つ二人がどのように試行錯誤を重ね、協力し合ったのか、八雲の曾孫である小泉凡氏がその真実を明らかにする。

小泉八雲の文学世界と妻セツの貢献を象徴するイメージ小泉八雲の文学世界と妻セツの貢献を象徴するイメージ

怪談が紡いだ夫婦の絆:「鳥取の布団」の夜

小泉八雲が松江に滞在し始めた頃、彼が耳にした最初の怪談の一つが「鳥取の布団」であった。紀行文「日本海に沿って」(小泉八雲の来日後初の作品集『知られぬ日本の面影』収録)では、旅の途中で宿の女中から聞かされたと記されているが、実際の語り手は妻のセツだったとされる。この物語は、セツが18歳で結婚した前夫、鳥取出身の為二から教わったものだった。為二の出奔により、セツは深く悲しんだというが、彼から聞いたこの哀切な話だけは忘れられなかった。これは、物語をこよなく愛するセツならではの感受性を示すものと言えるだろう。

「鳥取の布団」に込められた哀切な物語

「鳥取の布団」は、次のような内容である。鳥取で開業したばかりの小さな宿屋に、一人の旅商人が宿泊した夜、布団の中から「兄さん寒かろう」「お前も寒かろう」という子供の声が聞こえ、彼は幽霊だと訴えた。宿の主人は最初は取り合わなかったものの、同様の現象が続き、ついには主人自身も布団が話す声を聞くに至る。

原因を探るため、布団を購入した古道具屋に事情を尋ねると、悲しい真実が明らかになった。その布団は、鳥取の町外れにある貸家の家主から古道具屋が買い取ったものだった。その貸家には、貧しい夫婦と二人の男の子が住んでいたが、夫婦は相次いで他界。残された二人は家財道具や両親の残した着物を売って何とか生計を立てていたが、ついに一枚の薄い布団しか残らなくなってしまう。大寒の日、兄弟は布団にくるまり、「兄さん寒かろう」「お前も寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主が現れ、家賃の代わりに最後の布団を奪い取り、二人の兄弟を雪の中に追い出した。行き場を失った兄弟は、少しでも雪をしのぐため、追い出された家の軒先に身を寄せ合いながら息絶えてしまう。神様は二人の体に新しい真っ白な布団をかけてやり、もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後、二人の亡骸が発見され、千手観音堂の墓地に葬られたという。この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、布団を寺に寄進し、二人の兄弟を供養すると、布団がものを言うことはなくなったと伝えられている。

文学アシスタントとしてのセツ:八雲作品を支える母性

幼少の頃から物語の世界に浸ってきたセツの語り口によって、このような情景は八雲の目にありありと浮かぶような響きで迫ったのだろう。物語を聞き終えた八雲は、「あなた、私の手伝いできる人です」と大いに喜び、再話文学(神話、伝説、昔話などを現代の読者に理解しやすいように書き直された文学作品)の創作を支える「リテラリー・アシスタント」としてのセツが誕生した瞬間であった。

ダブリンでは乳母のキャサリン、シンシナティでは最初の結婚相手マティ、マルティニークではお手伝いさんのシリリアと、八雲の傍らには常に、その土地の伝承を語る女性たちがいた。八雲はそうした女性たちの中に、どこか母性を求めていたのかもしれない。セツもまた、八雲にとって日本の文化や精神を伝える「語り部」であり、心の奥底で彼が探し求めていた母性の象徴であったと言える。彼女の存在なくして、八雲が日本の怪談や民話を通して描き出した深遠な日本像は、決して生まれなかっただろう。

小泉八雲の作品からにじみ出る、日本文化への深い洞察と愛情は、他ならぬ妻セツが紡ぎ出す物語と、彼自身の「母性」への探求心によって育まれたのである。彼女の存在は、単なる妻という枠を超え、八雲文学の根幹を成す重要な柱であった。

参考資料

  • 小泉 凡 著『セツと八雲』(朝日新聞出版)
  • Yahoo!ニュース / DIAMOND online 「小泉八雲が描いた「日本人の心」の源は「鳥取の布団」だった!妻セツが果たした重要な役割」(2025年10月27日)