2009年、岐阜県乗鞍岳の畳平駐車場で発生したツキノワグマによる襲撃事件は、多くの人々に衝撃を与えました。この出来事では、襲われている人を救おうと駆けつけた人々が次々と被害に遭い、最終的に10名が重軽傷を負うという悲劇的な結果となりました。本記事では、その緊迫した状況と、一人の男性が示した類まれなる勇気、そしてその後の壮絶な闘病について、詳細にわたってお伝えします。この事件は、日本の美しい自然が持つもう一つの顔、つまり野生動物との共存の難しさと、予測不能な危険を私たちに改めて認識させました。
2009年乗鞍岳畳平:突然の悲劇
2009年9月19日、秋の行楽シーズン真っただ中の乗鞍岳畳平は、多くの観光客や登山者で賑わっていました。その日、石井恒夫氏(当時66歳)は、50代から70代の友人16人と共に、美しい乗鞍高原を訪れていました。横浜を前日の夜に出発し、諏訪SAでの休憩を経て、翌朝畳平へと到着した一行は、思い思いに散策を楽しんでいました。
石井氏は、中学時代から登山を始め、社会人になっても丹沢の山々や富士山、会津磐梯山、白馬岳など、数々の山を経験してきたベテラン登山家です。乗鞍岳を訪れるのはこの時で5回目となり、特に畳平バスターミナルからわずか15分で登れる魔王岳からの眺望をこよなく愛していました。彼にとって乗鞍岳は、何度訪れても飽きることのない、特別な場所だったのです。
悲鳴が響く遊歩道:決断の瞬間
午後2時20分頃、畳平周辺の遊歩道を散策していた石井氏の一行に異変が起こります。魔王岳へ向かう途中、後方から突然「クマが出たぞ」という叫び声が響き渡り、続いて女性の悲痛な「助けてー」という悲鳴が耳に飛び込んできました。これまで畳平でクマが出没するなど想像だにしなかった石井氏でしたが、人命が危機に瀕している状況に、彼の体は反射的に反応しました。
「お、クマが出たらしいぞ。俺、助けにいってくる」
友人の制止も聞かず、石井氏は迷うことなく遊歩道の階段を駆け下り始めました。「人を助けるのが先決だ」という強い思いが、彼を行動へと駆り立てたのです。現場までの距離は約20メートル。その短い距離を、石井氏は一心不乱に走りました。
恐怖と対峙:勇敢な救出劇
現場に到着した石井氏が目にしたのは、うつ伏せに倒れている女性の背中にツキノワグマがのしかかっている、あまりにも衝撃的な光景でした。周囲には多数の観光客や登山者がいましたが、クマの恐ろしさに足がすくみ、石を投げてクマを引き離そうとするのが精一杯の状況でした。
石井氏もまた、手にしていた石を投げつけながらクマに接近しました。そして、高速道路のサービスエリアで偶然購入していた杖を振り上げ、クマの鼻っ柱を殴りつけ、その目を突こうと試みました。この時の心境を、石井氏は後に「女性がクマにやられているのを見ていられなかった」と語っています。その言葉には、極限状態の中で他者を救おうとする、純粋で強靭な精神が込められていました。石井氏の攻撃により、クマは一時的に女性から離れました。石井氏は女性に「早く岩陰に隠れな」と促し、自身も逃げようとしました。
 日本の山中で遭遇する可能性のあるツキノワグマのイメージ写真。乗鞍岳での襲撃事件を想起させる。
日本の山中で遭遇する可能性のあるツキノワグマのイメージ写真。乗鞍岳での襲撃事件を想起させる。
クマの一撃:石井氏が受けた重傷
しかし、その瞬間、石井氏の目の前には既にクマが仁王立ちになっていました。四つん這いの状態では小さく見えたクマは、立ち上がると石井氏の頭よりもはるかに高く、その巨体と素早さに驚く間もなく、クマの左前脚が石井氏の頭部を直撃しました。
「その一撃で右目がぽろっと落っこっちゃって、上の歯もなくなりました」
激痛に襲われ、石井氏はその場に倒れ込みました。左手で顔を覆った次の瞬間、クマは上から石井氏にのしかかり、左腕に噛み付いてきました。そのままクマは頭を左右に激しく振り、石井氏の左腕は千切れんばかりに引き裂かれました。右手にはまだ杖を握り、必死に抵抗を試みましたが、意識は次第に遠のいていき、その後の記憶は全く残っていません。石井氏は、一命を取り留めたものの、右目の失明、顔面骨折、左腕の重傷など、取り返しのつかないほどの深手を負うこととなりました。
結論
乗鞍岳でのツキノワグマ襲撃事件は、美しい自然環境と隣り合わせに潜む危険性、そして人間がその中で見せる極限の勇気を私たちに強く印象付けました。石井恒夫氏の行動は、自己の危険を顧みず他者を救おうとする崇高な精神の証であり、多くの人々に感動と教訓を与えました。この事件は、観光地や登山道におけるクマ対策の重要性を改めて浮き彫りにし、野生動物との適切な距離の保ち方や、万一の遭遇時の対処法について、私たち一人ひとりが深く考えるきっかけとなるでしょう。
参考資料
- 羽根田 治『人を襲うクマ』(山と溪谷社)
- Yahoo!ニュース: https://news.yahoo.co.jp/articles/c0230fb85f640b1a8d75ae09f7ab509561c87795
 
					




