「日本は、本当は戦争を回避できたのではないか?」独裁者と呼ばれた首相やカリスマ軍人、憲法上の主権者たる天皇もいた中、彼ら指導者たちはなぜ“あの戦争”を止められなかったのか。戦後80年経った今、近現代史研究者が歴史のifを検証する。※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
● 独裁者・東条英機なら 戦争を止められたのでは?
あの戦争は止められたのではないか。その可能性を検証するため、何人かの指導者に焦点をあててみよう。個々の行動に注目することで、日本の構造的な問題もより具体的に浮かび上がってくるはずである。
大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機は、当時大きな権限を持っていたことから「独裁者」と評されることもある。そんなかれでも戦争を止められなかったのだろうか。
結論からいえば、それは不可能だったといわざるをえない。
そもそも東条が首相に就任したのは1941年10月、開戦のわずか2カ月前のことだった。前任の近衛文麿が内閣を突然放り出すように辞任したため、東条は準備もないまま、急遽その後任に就かざるをえなかった。
それなのに東条が独裁的と語られる原因は、複数の重要ポストを兼任したからだろう。
たとえば、大東亜戦争の開戦時には首相、陸軍大臣、内務大臣を兼ねており、陸軍と警察という二大実力組織を掌握していた(ただし開戦後すぐ内務大臣は辞任)。
さらに戦局が悪化した1944(昭和19)年2月には、軍政と軍令を区別するという従来の慣例を破り、陸軍大臣と参謀総長を兼任するという異例の措置を取った。
もっとも、こうした兼任は権力欲のあらわれというより、制度の枠内で政治的な指導力を発揮しようとする苦肉の策だった。
ヒトラーやムッソリーニのような独裁者は、長らくみずからに権限を集中させており、戦時下の指導もスムーズだった。
だが、日本では制度上それが不可能だったため、東条は“脱法的”な兼任によって、擬似的な独裁体制をつくり出そうとしたのである。神経質なまでに規則にうるさかった、軍官僚・東条らしいふるまいだった。
● 天皇の意向を守るため 戦争回避に奔走した
しかし、どれほどの要職を兼ねても、やはり限界があった。
開戦前の動きにもそれがよくあらわれていた。陸軍大臣としての東条は、もともと主戦派だった。だが、首相就任にあたって昭和天皇から「開戦を回避するように」との意向を受けると、自他ともに認める尊皇家だったかれは、その命を忠実に守ろうとした。
あまりに真剣に戦争回避に努めた結果、陸軍内部からは変節を疑われるほどだった。それでも、開戦を止めることはできなかった。
根っからの官僚型だった東条にとって、所定の手続きを踏んだ方針を覆すことはむずかしかった。同じ理由で、陸軍出身のかれは相対する海軍にまったく容喙できなかった。
そして1944年7月、サイパンが陥落すると、クーデターなどの混乱もなく、首相辞任に追い込まれた。他国の独裁者では考えにくいことだった。
戦後、東条は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、処刑された。そのため、ヒトラーやムッソリーニと並んで語られることも多い。しかし、実像としての東条は、そうした独裁者とは程遠い存在だった。
● 型破りな軍人・石原莞爾なら 歴史を変えられたのか?
それでは、東条に代わって“型破りな”軍人が指導者となっていれば、日本の歴史は変わったのだろうか。
その候補としてよく挙げられるひとりが石原莞爾である。
石原は陸軍士官学校で東条の4年後輩にあたり、「世界最終戦論」を唱えるなど、思想家型の独創的な軍人として知られていた。満洲事変当時には関東軍参謀を務め、その首謀者でもあった。
その石原が順調に出世し、陸軍を主導する立場に就いていれば歴史は変わった。そんな期待が語られることもある。






