NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢〜』第43回「裏切りの恋歌」で描かれた、稀代の浮世絵師・喜多川歌麿と版元・蔦屋重三郎(蔦重)の決別は、多くの視聴者に衝撃を与えました。単なる個人的な確執に留まらず、これは江戸時代の出版界と美術界に大きな影響を与えた歴史的転換点、そして当時の政治的・社会的背景、特に寛政の改革と深く結びついています。この記事では、歌麿が蔦重のもとを離れたとされる背景と、美人画が直面した圧力について深掘りします。
伝説の絵師・歌麿と版元・蔦重、創造的関係の終焉
ドラマでは、蔦重が自身の「お抱え」と信じていた歌麿が、西村屋に養子に行った万次郎と仕事をするという話を聞き、驚きを隠せない様子が描かれました。問い詰められた歌麿は、蔦重との共同作業をこれ以上望まないことを告げます。彼が挙げた理由の一つは、蔦重の耕書堂から刊行された自身の美人画に「歌麿筆」の署名よりも大きく蔦屋の印が押されていることでした。さらに、万次郎との新しい仕事への意欲を語ったのです。
吉原の再興を歌麿の絵に託していた蔦重は、「なんでもするから」と懇願し、翻意を促しましたが、歌麿は「それなら蔦屋をくれ」と無理難題を突きつけます。蔦重が無理だと答えると、歌麿は「蔦重はいつもそうなんだよ。お前のためにっていいながら、俺のほしいもんはなに一つくれねえんだ」と突き放しました。歌麿が去った後、蔦重は別れの言葉をしたため、その胸中には20年にわたる苦楽を共にした盟友への感謝と寂寥が入り混じっていたことでしょう。
史実においては、歌麿が蔦重のもとを即座に離れたわけではありません。松平定信が失脚する寛政5年(1793年)頃から、歌麿は蔦重と距離を置き始め、寛政6〜7年(1794〜95年)頃には若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田屋、松村屋、鶴屋など、多くの版元から錦絵を刊行するようになりました。歌麿の離反は、蔦重にとって計り知れない痛手だったに違いありません。
横浜流星が演じる蔦重
美人画の隆盛と寛政の改革による圧力
寛政3年(1791年)、山東京伝作の黄表紙『箱入娘面屋人魚』と洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』の3作が摘発され、身上半減の処分を受けた蔦重にとって、巻き返しを図る最大のコンテンツが歌麿の美人画、特に半身やバストアップに焦点を当てた「大首絵」でした。顔を大きく捉えた錦絵は、それまで役者絵にしか見られなかった表現であり、これを美人画に取り入れたのは蔦重の発案と言われています。彼のプロモーションにより、大首絵は江戸で一大ブームを巻き起こしました。
歌麿の美人画は、どの女性も理想化された美の象徴として描かれながらも、手の動きや身体の傾き、そして目元などのわずかな表情の違いによって、個々の心情や個性が深く伝わる点が特徴です。このような他にはない才能を蔦重は見抜き、歌麿に存分に表現させたのです。
しかし、この時代は松平定信による寛政の改革が強力に推し進められ、倹約と風紀の是正が厳しく求められていました。定信自身は寛政5年(1793年)に失脚しますが、その後も彼が取り立てた松平信明ら「寛政の遺老」が幕政を主導し、改革の方向性はしばらく続きました。歌麿の代表作の一つである『当時三美人(寛政三美人)』には、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊ひなという江戸で評判の三美人が描かれています。この絵は身近なアイドルのブロマイドのような役割を果たし、彼女たちを一目見ようと店に客が殺到するようになると、幕府は風紀を乱すものとして黙ってはいませんでした。
このように、喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係の終焉は、単なるビジネス上の決別ではなく、浮世絵という芸術形式が直面した時代の波、すなわち寛政の改革という政治的圧力の中で、表現の自由と商業的成功、そして芸術家の独立性がどのように試されたかを示す象徴的な出来事だったと言えるでしょう。彼らの作品が現代にまで語り継がれるのは、まさにその困難な時代を生き抜いた証なのです。





