中東・ガザ地区では現在も紛争が続いています。この諍いはなぜ始まり、そしてなぜ終わらないのでしょうか。ジャーナリストの池上彰氏によると、その始まりは第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ人とアラブ人の双方に異なる顔を見せたことに起因すると指摘しています。本記事では、現在の複雑な中東問題の歴史的背景、特にイギリスが果たした役割について掘り下げます。
第一次世界大戦とイギリスの中東戦略
現在の複雑な中東問題の種を蒔いたのは、今から一世紀以上前のイギリスに遡ります。第一次世界大戦中、20世紀が「石油の世紀」とも呼ばれる中、イギリスはオスマン帝国を追い込み、中東地域を自らの勢力圏に取り込もうと画策していました。この動きが、その後の地域情勢に決定的な影響を与えることになります。
アラブ人への約束:フサイン・マクマホン書簡
第一次世界大戦でオスマン帝国と対立していたイギリスは、オスマン帝国支配下にあったアラブ人たちに対し、反乱を促しました。1915年、イギリスはメッカの守護者であるハーシム家のフサインと、エジプト高等弁務官であったマクマホンとの間で「フサイン・マクマホン書簡」を取り交わします。この書簡では、「オスマン帝国からアラブ人が反乱を起こし、オスマン帝国を打倒すれば、イギリスはそこにアラブ人の国を建国することを約束する」と明記されていました。これはアラブ人の独立への強い期待を抱かせるものでした。
中東問題の背景を示すイメージ写真
列強による密約:サイクス・ピコ協定
一方で、アラブ人に独立を約束したその翌年の1916年、イギリスはフランスおよびロシアとの間で「サイクス・ピコ協定」という秘密協定を結びました。これは「戦争に勝利した場合、旧オスマン帝国領の中東地域をイギリス、フランス、ロシアで分割する」という密約でした。イギリスの政治家マーク・サイクスとフランスの法律家・外交官ジョルジョ・ピコが原案を作成したこの協定は、アラブ人の独立とは相容れない、大国間の利権分割を目的としたものでした。
密約の暴露と中東の分割
この秘密協定は、1917年のロシア革命によって白日の下に晒されます。革命を主導したレーニンが「ロシア帝国はイギリスとの間で秘密協定を結び、中東地域を分割しようとしていた」と暴露したのです。ロシアは帝国主義的な取り組みへの不参加を表明し、協定から離脱したため、イギリスとフランスの二国間協定として効力を持ちました。
この取り決めに基づき、第一次世界大戦後、現在も中東問題の中心地となっているイラクやクウェート、そしてパレスチナ周辺はイギリスの勢力圏に、シリアやレバノン周辺はフランスの領有となり、中東は両国によって分割支配されることになったのです。
結び
池上彰氏が指摘するように、現代の中東紛争の根源は、第一次世界大戦中のイギリスによるアラブ人への約束と、フランス・ロシアとの間の秘密協定という二枚舌外交に深く根差しています。これらの歴史的経緯が、現在のガザ地区を含む中東地域の不安定な状況を形成する上で、決定的な役割を果たしました。この複雑な歴史的背景を理解することが、中東問題の本質を把握する上で不可欠です。
参考資料:
- 池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題 学べる図解版 新版 池上彰が読む「イスラム」世界』(KADOKAWA)
- Yahoo!ニュース (記事掲載元)





