戦前〜戦後の北海道の奥地で、父から狩猟の手ほどきを受けていた若き日の作家・今野 保。ある日、亡くなった愛馬の墓が何者かに掘り起こされた形跡を発見する。熊の仕業であることを直感した今野は、たった1人で憎き熊を撃ち殺すことを決めた――。※本稿は、作家の今野 保『羆吼ゆる山』(山と渓谷社)の一部を抜粋・編集したものです。
● 熊が馬の墓を掘り返し 下腹を喰い破った
北の春(編集部注/1936年)はまたたくまに過ぎ、その跡を襲うように夏がやってきた。
毎年この時季になると、私たちは父と母を中心に親戚の者を加えて数名で、染退川(現在の静内川の旧称)のメナシベツ(東の川)を訪れ、20日間ほどそこの山小屋に寝泊りしてキャンプ生活や渓流釣りを心ゆくまで楽しんだものであった(編集部注/著者は当時20歳)。
その年も6月末から7月の下旬までメナシベツで過ごし、焼き干した沢山のヤマベ(ヤマメ)を背負って帰途についた。
ところが、家に戻ってみると、愛馬・開運号が急な病いで倒れていた。獣医に診てもらい、手当てもしてもらったのだが、すでに高齢であったためか、開運号はそれから間もなく不帰の客となった。
永い間よく働いてくれた馬であった。家族の話し合いで、いつでも立ち寄って花を供えられるよう墓は家に近いところがいいだろう、ということになり、200メートルほど離れた三号の沢の入口近くの山裾に、大きな穴を掘って亡き骸を埋め、手厚く葬ってやった。
それは、埋葬してから3日目の朝のことであった。
塩や水を持って行ってみると、墓が掘り返され、開運号の下腹のあたりが無残にも喰い破られていた。掘り出された土の上に、大きな熊の足跡が印されていた。
その足跡を目にしたとき、私は、去年の秋に椎茸採りに行って出会った熊や、松江(編集部注/知人一家の娘)が見たという熊、そしてその後幾度か二号の窯から三号の窯の辺りに姿を見せていた熊のことを思い出し、はっと息を呑んだ。
それらは別々の熊ではなく、まさにこの大きな足跡を残した1頭の熊に違いない。その直感が確信に近いものとなるにつれ、全身に熱いものが滾り、力がみなぎってくるのを覚えた。
● 1対1で熊と戦おう 強い決意で山に入る
掘り返された穴をそのままにして、私はいったん家に戻り、鉈や鋸を用意してそこに引き返し、穴から10メートルほど離れた平地に立つ、やや太目のクチグロの木に登った。その木は、三の枝から上は車枝が四方に張り出していて、少し手を入れただけで恰好の待ち場ができ上がった。
私はさらに邪魔な下枝や小枝を鉈で払い落とし、弾道の見通しをよくしてから家に帰った。そして日が暮れるのを待った。
父は昨日の朝から、函館、札幌、小樽、苫小牧などの木炭問屋を回ってくると言って出かけていった。あと3日は、帰ってこないだろう。
熊は必ず、また亡き骸を喰いにくる。今夜、必ず。撃つとすれば、その機を逸してはならない――。夜の待ち場に上るのは初めてで、言いようのない不安が胸を浸していたが、私は今夜こそ1対1で熊と対決をしようと臍を固めた。
夕暮れとともに支度をして、外に出た。曇り空の一角に残照が仄見えているが、陽はとうに山陰に沈み、クチグロの木のある山裾には早くも宵闇が迫っていた。
私は素早く待ち場に上ると、水を入れたビンや握り飯の包みを傍らの枝に吊るし、足場をしっかりと定め、坐る場所を楽にして、すべての準備をととのえた。
銃は、使い馴れたグリナーの24番ではなく、ウインチェスター401のライフル自動5連銃を持ち込んだ。
このライフル銃は、重量が6キログラムもあって、ずっしりと重いが、それだけに発射反動は少なく、連射時の銃身のブレもないので、命中率が高い。この自重の重さと、入弾孔の小さいのに比して出弾孔のあまりにも大きいことの2点を除けば、それはきわめて強力な、申し分のない銃であった。






