渡辺恒雄氏と靖国参拝問題:宿敵・朝日新聞との「異例の共闘」

読売新聞の渡辺恒雄氏は、長年にわたり政治指導者の靖国神社参拝に反対する姿勢を一貫して示してきました。特に2006年、当時の小泉純一郎首相が終戦の日に靖国神社を参拝した際、渡辺氏が取った行動は周囲の誰もが予想しないものでした。それは、自社の宿敵である朝日新聞社の論壇誌に登場し、総理大臣の靖国参拝に対する批判を展開するという、まさに「異例の共闘」でした。この出来事は、渡辺氏のジャーナリズム人生と、彼が抱き続けた朝日新聞への対抗意識の文脈で語られるべき重要な局面です。

渡辺恒雄氏と朝日新聞:長年の対抗意識

渡辺氏はその記者人生において、常に朝日新聞の存在を強く意識し、激しい対抗心を燃やしてきました。社長に就任した翌年の1992年、当の朝日新聞が行ったインタビューで、渡辺氏は率直な心情を語っています。「朝日新聞は、一言でいうと嫌いだが、毎日最初に読まざるを得ないですね。(中略)社説はそういう〔コラムのような〕感情的な表現がないからこれは絶対読む。一番先に読んで読売の社説と比較している」と述べ、その読売新聞への深い執着を露呈しました。さらに、「ぼくは新聞人生の半分以上を朝日への対抗意識で過ごしてきた。いまは対等に戦っているつもりだ。(中略)朝日新聞がなかったら、今日の読売新聞はなかったろう」とまで語り、朝日新聞との競争がいかに読売新聞、ひいては自身のジャーナリズムを形作ったかを明かしています。

1993年4月、巨人激励会に出席し笑顔を見せる渡辺恒雄氏1993年4月、巨人激励会に出席し笑顔を見せる渡辺恒雄氏

社論を巡る論争と「不倶戴天のライバル」

渡辺氏は論説委員長、そして主筆として、1980年代から90年代にかけては日本の大局的な課題に関する元日社説を自ら執筆していました。特に1984年の元日社説では、「社論の基礎的立場」として日本の国際的責任を論じ、西側陣営の一員としての安全保障政策を重視する立場を主張しました。その上で、非同盟中立を主張する「反米親ソの左翼戦略」を批判し、「現実を無視した安全保障政策の選択は幻想的であり無責任」「進歩を偽装した保守的・観念的中立主義に耽溺(たんでき)することは許されない」との持論を展開。これは、当時の朝日新聞の論調を強く意識したものとされています。2000年代に入ると、読売新聞のグループ会社である中央公論新社からは、読売新聞と朝日新聞の社説を比較した『読売VS朝日』と題する4冊ものシリーズ書籍が出版されるなど、両紙の対立構造は公然のものでした。渡辺氏にとって、朝日新聞は一目置く存在でありながらも、その大局的な価値観や論調においては決して相容れない「不倶戴天のライバル紙」だったのです。

靖国参拝批判における異例の連携

そのような長年にわたる強烈なライバル関係にあったにもかかわらず、渡辺氏は、その朝日新聞の論壇誌に登場し、総理大臣の靖国参拝批判で「共闘」するという、周囲を驚かせる挙に出ました。この歴史的な対談の相手は、朝日新聞論説主幹であった若宮啓文氏です。若宮氏は政治取材に長く携わり、論説委員や政治部長などを歴任した人物であり、当時は社説の責任者を務める「朝日新聞きっての論客」として知られていました。読売新聞のトップが、長年の宿敵である朝日新聞の論説部門トップと手を組み、共通の政治課題に対して批判の声を上げるという事態は、当時のメディアと政治の関係性において極めて異例であり、その衝撃は計り知れませんでした。

結論

渡辺恒雄氏が靖国参拝問題において見せた、長年のライバルである朝日新聞との垣根を越えた異例の連携は、彼のジャーナリズムにおける信念の強さと、特定の政治的立場に対する断固たる姿勢を示すものでした。この出来事は、単なるメディア間の協力に留まらず、当時の日本の政治状況、そしてメディアが果たすべき役割について、深く考えさせる契機となったと言えるでしょう。渡辺氏のこの戦略的な行動は、時に主義主張のためには「宿敵」とも手を取り合うという、彼の並外れた決断力を象徴しています。

参考文献

  • 安井浩一郎 著 『独占告白 渡辺恒雄 平成編』 新潮社