戦後の米軍統治下の沖縄をテーマにした映画『宝島』公開から1カ月半が過ぎた。巷では、『国宝』と比較されて「莫大な製作費をかけた割には興行収入が少ない」などなにかと比較がされているものの、沖縄出身の私は素直にこう思っている。「とにかく本土の人々が沖縄の戦後史でこんな巨大な映画を作ってくれただけで嬉しい」。さらに誤解を恐れずに言うなら「どんな内容であろうと見向きしてもらえただけでも嬉しい」のだ。
■ストーリーは難解。それでも感じた細部に宿る“本気”
映画『宝島』は、なんだか難しかった。ある人は「原作を読んだ人ならストーリーが理解できる」と話し、またある人は「3時間でも尺が足りない。少なくとも10話完結ドラマぐらいにしないと」と話す。そう、とにかく映画版だけ観てもストーリーがちゃんとはわからなかったのだ。少なくとも私には難しかった。
ただ、わかったことは、制作側の沖縄に対する知識の深さだった。もちろん、絶妙な方言の用法やイントネーションの不自然さはしょうがないものの、それ以外の部分の解像度が非常に高いのだ。
若い男女が浜に集って酒を飲んだり歌い踊ったりするかつての習慣・毛遊び(もうあしび)、天寿をまっとうした人の旅立ちはむしろお祝いだとするお通夜の雰囲気、市場で売られる伝統お菓子のアガラサーやウムクジ天ぷら、復帰運動のテーマ曲的存在「沖縄を返せ」など、こんなに細かく着眼して描いていることに、本気度と愛情すら感じられる。
大げさかもしれないが、この“本気度と愛情”は、観客の側にも感じている。映画自体の理解は、沖縄の人間にとっても難しいのに、沖縄の歴史や言葉についての予備知識がない本土の人はもっと難しかったはずだ。それでも一生懸命理解しようとしながら190分間も向き合ってくれていることに、思いを馳せてしまう。
■“支配者”が変わり続けた島の記憶
忘れずに言及したいのだが、本土から切り離されたのは、沖縄だけではない。小笠原諸島と奄美群島も同様だったが、統治の規模や長さ、米軍との接点の点で特筆されるのが沖縄だった。
今となっては信じられない人もいるかもしれないが(そして当時私は生まれてもいないが)、1945年-1972年の沖縄は「ドルを使い、本土に行くのにパスポートが必要」だった。問題の本質はそんな表面的なことではなく、なにしろ「本土から切り離される形で、日本の憲法もアメリカの憲法も何も適用されていなかった」のだ。






