2022年2月5日、私小説家の西村賢太さんが54歳でこの世を去った。それから数年後、かつての恋人が「けんけん」こと西村さんとの関係について綴る決心をしたのは、彼のこんな言葉に背中を押されたからだった――「自分の人生に責任、持てよ」。
【画像】西村賢太さんが亡くなった後、元恋人・小林麻衣子さんの元に戻ってきたという西村さん宛ての手紙を見る
ここでは、西村さんが亡くなるまで個人的な付き合いがあり、5年弱の半同棲期間を共に過ごしたという小林麻衣子さんの 『西村賢太殺人事件』 (飛鳥新社)より一部を抜粋してお届けする。東京に暮らす芥川賞作家と、図書館で偶然作品に出会ってのめり込んだ岡山在住のファン。そんな2人は一体どのようにして出会ったのだろうか。(全3回の1回目/ 続きを読む )
◆◆◆
何と本当に、電話がかかってきてしまった
作者は一体どんな人なのだろう? その一心でYouTubeもよく見るようになった。芥川賞受賞時の会見も遅ればせながら見て、「バカだなァ、この人」と笑いながら一方で、自分なら格好つけてしまってとてもじゃないがこんなことは言えないだろう、敵わないなァ、格好いいなァ、と思った。
そして何より、見た目がタイプだった。乱暴に云えば、映画『ビッグ・リボウスキ』のジェフ・ブリッジスや、ドラマ『ザ・ソプラノズ』のジェームズ・ガンドルフィーニと同じ範疇である。好きなタイプは? と訊かれて「大仏」と答えていた私である。お察しいただきたい。父や兄よりも、ガタイがいいというのが譲れぬポイントだった。そうして、そうだ、髭もよかった。ちょっと痩せれば教科書に載っていた源頼朝に似ていると思った。父や男兄弟たちも皆髭を生やしていたので、何というか、地続きのような気がしたということもある。
こうして退職した冬を生き延びて、気が付いたら、暖かくなっていた。
自分でもだいぶ狂っていると思うが、恩返しのつもりで一生懸命手紙を書き、「女性ファンたるものこれぐらいは」という気持ちに、自棄っぱちの捨てッ鉢も相俟って、こんなので喜んでもらえるならと、電話番号を添えたのである。そうしてノコノコと池袋くんだりまで彼のトークショーに出掛けてゆき、お菓子か何か、手土産と一緒に、まんまと直接本人に手渡すことが叶ったのである。2012年5月20日のことだった。そうしたら数日後、何と本当に、電話がかかってきてしまったという訳である。
この電話は本当に本当に楽しくて、久しく誰とも喋っていなかった私が多分ベラベラと一方的に喋りまくったのを、けんけんは「タメ口にしよう」だの「呼び名を決めよう」だのと要所、要所で私の緊張がほぐれるよう、的確にリードしながら面白がって聞いてくれて、アッと云う間に「じゃあ、まいまい、今日はここまでにすっかい?」ということになった。
岡山の人の全く言わない「〜かい?」を聞くのは東京生まれの母方の祖父が亡くなって以来だった。電話の向こうで、真夜中の王子を走る救急車のサイレンが鳴っていて、「近所に病院あんだよ」と言うので、「うん、知ってる。書いてあったから」と言った。最後は「名残惜しいけどよ」というようなことも言ってくれたが、こちらも、後ろ髪を引かれるようだった。
翌週か翌々週、Webで公開されていた「Matogrosso一私小説書きの日乗」の最終回に「五月二十三日( 水)深更、自分にとって大変にうれしい電話。平生、長電話なぞ一切しない自分が、一時間話して、まだ話し足りない」とあるのを読んで、これにはもう、ピョンピョン跳ねた。






