北海道奥地の羆との遭遇:父と子が体験したヤマドリ猟と自然の脅威

戦前そして戦後の北海道奥地では、人々は常にヒグマの気配を感じながら生活を営んでいました。作家・今野保氏は、若き日に父と共にヤマドリ猟に出かけた際、思わぬヒグマとの遭遇を果たします。父が銃を構え、勇敢な猟犬4頭が熊を追い詰めるも、その状況は一変することになります。本稿は、今野保氏の著書『羆吼ゆる山』(山と渓谷社)から一部を抜粋・編集したものです。

忘れられない羆の記憶:北海道の自然と共に生きた日々

かつて、この地ではヒグマとの遭遇は日常の一部でした。去年の秋には、藤島の娘・松江さんが椎茸採りの最中に大きな熊に出くわし、恐怖のあまり木の上に避難するも、偶然通りかかった筆者が彼女を救い出すという出来事がありました。秋から冬の半ばにかけては、二号窯から三号窯の近辺にたびたび大熊の姿が見られました。その都度、父や筆者が銃を手に駆けつけましたが、熊たちは巧みに追跡を逃れ、どこかで冬ごもりに入ったようでした。山は雪に覆われて静かに眠りにつき、人々もまた静かで穏やかな日々を過ごし、こうして昭和11年の春を迎えようとしていました。

春の訪れとヤマドリ猟への準備

筆者は20歳になり、山元の仕事は父の有無にかかわらず全て一人で切り盛りするようになっていました。父も安心して対外的な用事に出かけることができるようになりました。雪解けと共に山々には日一日と春の息吹が満ち満ち、猟期も終わりに近づいた4月のある日、朝から父と一緒にヤマドリ(エゾライチョウ)を撃ちに出かけました。久しぶりに咲梅の沢を奥へ進み、鉱区の沢の真向かいに流れ込む枝沢、通称「小田切の沢」へと足を踏み入れました。小田切の沢という名は、かつてこの沢に小田切姓の一家が入山し木炭を焼いていたことに由来するもので、山に関わりのあった人たちにしか通じない呼び名でした。

その小田切一家は6年前に転出し、今ではこの小沢を訪れる人もなく、昔の道は雑草の中に埋もれていました。しかし、その沢の流れにはヤマベ(ヤマメ)の魚影が濃く、釣り好きの筆者はしばしばここへ足を運んでいました。ちょうどヤマドリの繁殖期が始まったばかりで、至るところに巣作りにとりかかったオスとメスの番がいました。呼び笛を吹けば、どこからともなくそれに応える鳴き声が上がり、ヤマドリの方からこちらへ飛んでくるほどでした。

新緑の季節を迎える北海道の山間部の風景新緑の季節を迎える北海道の山間部の風景

猟犬たちの活躍と予期せぬ展開

父は、ヤマドリが番でいるときは必ずメスから先に撃つことにしていました。それは、メスを先に撃ち落としても、オスはその近くの木に飛び移りはするものの、遠くへは飛び去らないためでした。反対にオスを先に撃つと、メスは一直線に遠くへ飛んでいってしまうのです。筆者も何度かそのような経験があったため、この頃には父のようにオスとメスを見分けて撃つようになっていました。

こうして二人はヤマドリを求めて小田切の沢を上り詰め、咲梅川と鳧舞川本流の間の峰伝いに左へ進路を取りました。大橋(編集部注:大橋清子。著者の父の知人の娘で、家族で転居した)が住んでいた沢の詰めを回り、最終的には伊藤の叔父が住んでいた沢を下って咲梅川本流に出てから帰宅するというのが、この日父が立てた予定でした。私たちについてきた犬は、ノンコ、四郎、チョコ、そして伊藤の家(編集部注:著者の叔父一家)で飼われているアンコの4頭でした。犬たちは二人の先になったり後になったりしながら峰まではついてきましたが、いつものように、どこかへ姿を消しました。

日当たりの良いところでは雪がすっかり解け、落ち葉でくすんでいた山肌もところどころに芽吹きの淡い青みを帯び始めていました。しかし、北向きの斜面や日陰の多いところにはまだ残雪があり、昼近くまでなら固雪となっているので、その上を走って通れるほどでした。昼少し前、二人は、かつて藤田の山(編集部注:北海道・五鹿山の一帯は藤田製炭所の持ち山)が盛んだった頃に伊藤の叔父が木炭を焼いていた沢の源流に到達していました。ヒグマの気配が徐々に濃くなる中、彼らの狩猟は予想もしない展開を迎えることになります。

参考文献

今野保, 『羆吼ゆる山』, 山と渓谷社