働けない病人と高齢者は”社会のお荷物”なのか…血液のがんと闘った医大生(24)が母親に遺した言葉


【写真をみる】生前の齊藤樺嵯斗さん。医学生として医師を目指していた

■小学生から医師になる夢を抱いていた

 本稿の前編(「全額自己負担していたら『月3000万円』かかる…医大生の息子(24)を看取った両親が語る“病気とお金”の現実」)では、2025年9月16日に悪性リンパ腫によってこの世を去った医学生・齊藤樺嵯斗さんとともに闘病を経験した患者家族のリアルな生活について語ってもらった。

 両親が「樺嵯斗も、病気を克服したのちに医師として働けるのか、心配していた」と語るように、ひとたび重篤な病気に侵されれば、社会を牽引する側ではいられなくなることが多い。コスパや生産性が重視されがちな社会の風潮について、患者家族としての思いを話してもらった。

 樺嵯斗さんは血液内科医になる夢を抱いて学ぶ青年だった。医師を志した源泉には、一貫した「救いたい」がみてとれる。母親は、樺嵯斗さんがほつれたジンベエザメのぬいぐるみを取り出して、「治してあげる」と言った日のことを覚えていた。

 「小学校低学年のことだったと思います。家にあった裁縫セットを持ってきて、ぬいぐるみを切り始めました。ワタが少なくペタンコの状態だったので、もとの状態に戻そうとしたんです。ジンベエザメのお腹に入れた切れ目にワタを詰めると、縫い付けていました。そのころから、『治したい』が彼の中にあるように感じます。また、主人は介護士なのですが、職場体験をしたときには『お父さんみたいに人を助ける仕事がいい』ということを口にしていました」

■“常に誰かのために”動く息子だった

 治す対象、助ける対象は人間だけではない。動物好きだった樺嵯斗さんは、獣医師に憧れたこともあったという。高校1年生のときには、父親と一緒に県外の獣医学部を有する大学まで出かけている。

 常に誰かのために――母親が話すエピソードから、柔和な人柄がわかる。

 「ありがたいことに、友人がたくさんいました。幼い頃も、ご近所の方から『うちの子が樺嵯斗くんと仲良くなりたいと言ってて、一緒の習い事しない?』と誘われたり、本当に周囲の人には恵まれているなといつも感じていました」

 誰にでも優しく、慕われやすい。一方で、家庭内では、兄として自律的な面を家族に見せることも多かった。

 「末の娘と樺嵯斗は年齢が離れているのですが、彼女に対しても甘やかさず、お父さんや指導者みたいに接していました。ある意味で、父親よりも父親らしかったかもしれません。いつも妹を気にかけていて、自分ががんになったときも、『妹がなっていたら耐えられなかった。自分で良かった』と話していました。面倒見がよく可愛がるため、娘にとっては永遠に“自慢の兄”なんです」(母親)



Source link