主婦がヤクザに復讐を決意 山一抗争の犠牲となった娘の母

1985年、兵庫県尼崎市で発生したヤクザ抗争に巻き込まれ、19歳の娘の命を奪われた堀江ひとみさん。最愛の一人娘を失った彼女は深い絶望の中、「自分の手でヤクザを潰す」と心に誓った。ごく普通の主婦であった彼女が、巨大な暴力団組織を相手に挑む前代未聞の闘いがここから始まる。

尼崎市で発生したヤクザ抗争事件の悲劇を示すイメージ写真尼崎市で発生したヤクザ抗争事件の悲劇を示すイメージ写真

山一抗争勃発の背景

1981年7月、当時組員3万人強を擁し日本最大規模を誇った山口組の三代目組長、田岡一雄氏が心不全で死去した(享年68)。このドンの死後、組は組長代行の山本弘氏(当時55歳)と若頭の竹中正久氏(当時48歳)の二大派閥に分裂する。

1984年7月、田岡元組長の未亡人の後押しもあり、竹中氏が四代目組長の座に就任したことが発端となり、これに反発した山本氏は自らを推す直参組長らを引き連れ独立し、「一和会」を結成。ここに、山口組と一和会の間で血で血を洗う「山一抗争」が勃発した。

抗争の激化と一般市民への犠牲

抗争は瞬く間に激化の一途をたどる。1985年1月には、竹中組長が大阪府吹田市の愛人宅マンションで一和会系の組員に暗殺されるという衝撃的な事件が発生。これに対し、翌2月には山口組豪友会組員が一和会中井組組員3人を襲撃し、2人を射殺、1人に重傷を負わせる報復が行われた。

抗争は1989年3月に終結するまでに、実に317件もの事件が発生し、一和会側で死者19人、負傷者49人、山口組側でも死者10人、負傷者17人という多数の犠牲者を出した。さらに、抗争は暴力団内部だけでなく、警察官や一般市民にも危害が及ぶ事態となったのだ。

前述の堀江まやさん(当時19歳)は、抗争が最も激化していた1985年9月28日に、何の落ち度もない一般人としてその命を落とした。彼女は、尼崎市のスナックで働いている最中、別の暴力団構成員を標的とした銃撃に巻き込まれ、流れ弾を浴びて死亡したのである。

このように、暴力団同士の凄惨な抗争は、直接関係のない一般市民の命までをも奪うという悲劇を引き起こした。愛する娘を理不尽な暴力によって失った母、堀江ひとみさんの胸には、深い悲しみと共に、自らの手でヤクザという存在を根絶やしにするという、固い決意が芽生えていた。ごく普通の主婦が、日本を揺るがす大騒動へと発展させることになる、前代未聞の復讐劇の幕が、今、開けられようとしていたのだ。

参考資料:鉄人社『世界で起きた戦慄の復讐劇35』より抜粋