室町時代に10年にわたって続いた応仁の乱は、多くの武将の運命を変えました。その一人である細川政元は、乱の最中に父・細川勝元を亡くし、わずか7歳で細川家の家督を継ぐことになります。幼すぎる当主は、周囲の有力者たちに翻弄され、自らの意思で政治を動かすことができませんでした。この幼少期の苦難が、元服した政元が後に見せることになる、オカルトを利用したとも言われる独特の政治スタイルを形作る上で、大きな影響を与えたと考えられています。
室町時代末期、戦国時代を思わせる武将のイメージ
政元の誕生と応仁の乱
細川政元は1466年(文正元)に誕生しました。父は当時の有力守護大名である細川勝元、母は勝元の宿敵であった山名宗全の養女(山名熙貴の娘)です。母方の祖父である山名熙貴は、1441年(嘉吉元)の嘉吉の乱で亡くなっています。
政元の父、細川勝元は1430年(永享2)に細川持之の嫡男として生まれ、1442年(嘉吉2)に父の死去に伴い13歳で家督と摂津国などの守護職を継承しました。勝元は1445年(文安2)に初めて室町幕府の管領に就任して以来、合計4回、通算20年もの間この要職を務め、幕政において絶大な影響力を振るいました。彼は、畠山氏の家督争いや、勘合貿易を巡る大内氏・河野氏との対立など、当時の重要課題に積極的に対応しています。
やがて、八代将軍足利義政の後継者を巡る問題(義政の弟・義視と実子・義尚の対立)が、畠山氏や斯波氏といった有力守護大名の家督争いと複雑に絡み合いました。これにより、幕府内は二つの大きな勢力に分裂し、一方の主導者となったのが細川勝元、対立する他方の主導者が山名宗全でした。1467年(文正2)、京都の上御霊社で畠山政長と義就の間で武力衝突が発生したことが引き金となり、日本史上最大の戦乱の一つである応仁の乱が勃発します。この戦火は京都だけでなく、全国各地へと拡大していきました。
父・勝元の死と政元の家督相続
応仁の乱が続く中、細川勝元は1473年(文明5)5月にこの世を去ります。奇しくも、対立関係にあった山名宗全も同年3月に亡くなっています。勝元の死因は病死とされていますが、詳細は不明です。しかし、臨終間際に嫡男の政元(当時は聡明丸)に対し、「聡明丸がおれば細川は安泰」という言葉を残したと伝えられています。
細川勝元は単に有能な政治家であっただけでなく、非常に多才な人物でした。彼は禅宗に深く帰依し、京都の龍安寺や丹波国の龍興寺などを建立しています。また、和歌や絵画、鷹狩りや犬追物といった武芸にも長けており、さらに料理や医術にも通じるなど、幅広い分野で才能を発揮しました。医術に関する著作として『霊蘭集』を著したことでも知られています。
このような傑出した父、勝元の唯一の嫡男として生まれた政元は、まさに生まれながらのスーパーエリートでした。勝元には政元が生まれる前に細川勝之という養子がいましたが、彼に家督を継がせる意向はなく、政元の幼名である「聡明丸」の名も与えていませんでした。つまり、政元は細川家という武家の中でもトップクラスの家柄を継承する唯一の後継者であり、さらに彼自身も個性的で能力に秀でた人物であったと言われています。
父・勝元の突然の死によって、政元が細川家の家督を継承した際には、周囲からの期待が非常に大きかったようです。家督を巡る争いらしい動きは見られず、細川一族の重鎮が二人、政元の後見人としてサポートに就きました。これは、幼い当主を支えようという一族全体の強い意思表示であったと解釈できます。
結論
細川政元が父・勝元を応仁の乱中に失い、未曽有の大乱の最中に幼くして細川家の家督を継いだ経験は、彼のその後の人生と政治スタイルに決定的な影響を与えました。幼い頃から周囲の大人たちに囲まれ、自らの意思を通せない環境に置かれたことは、後に彼が常識にとらわれない独特な手法、時にはオカルトさえも利用する政治スタイルを確立する基盤となったのです。この激動の幼少期こそが、「ポスト応仁の乱の覇者」とも称される細川政元の複雑で特異な政治の原点と言えるでしょう。
参考資料
古野 貢著『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(星海社新書)