人間の脳はなぜ「心」を持てるのか?チンパンジーから見る知能と言語の深淵

地球上に存在する多様な生命体の中で、人間ほど高度に発達した知能と複雑な「心」を持つ生物は他に類を見ません。この驚くべき進化は、一体どのようにして達成されたのでしょうか。脳科学の第一人者が、その深遠な謎に迫ります。この記事では、脳の不思議を解き明かし、人間特有の精神活動の根源を探ります。

地球上で「心」を宿すのは人間だけ:複雑な感情と高度な思考

おそらくこの地球上で「心」と呼べる複雑な精神活動を持つのは人間だけでしょう。動物にもある程度の感情らしきものは存在するかもしれませんが、人間が持つ喜怒哀楽、共感、そして深い思索といった多層的な感情や知性は、他のどの生命体にも見られません。言葉を駆使して他者と高度なコミュニケーションを図り、自己と他者を重ね合わせて共感する能力、物事を深く追求する思考力などは、まさに人間固有のものです。

不思議なことに、霊長類の中でもチンパンジーは遺伝子的に人間と数パーセントしか違いませんが、その知能や知性のレベルは人間には遠く及びません。

高度な知能と心を育む脳の構造高度な知能と心を育む脳の構造

チンパンジーの言語学習プロジェクト:抽象概念の壁

かつて京都大学霊長類研究所(現ヒト行動進化研究センター)では、霊長類学者の松沢哲郎氏の研究チームが、チンパンジーの「アイちゃん」を対象に言語習得プロジェクトを実施しました。色や物の名前を示す図形文字(○や□、|を組み合わせた図形)をアイちゃんに学習させたところ、彼女は多くの記号を覚えることに成功しました。例えば、白色を見て「白」に対応する記号を選んだり、5本の鉛筆を見て「5」と答えるなど、数についても一定の理解を示しました。

しかし、この研究で重要な限界が明らかになりました。「モノ」を見せられて「それを示すキー」を示すことはできても、逆に「キー」を見せられて「モノ」を示すことはできませんでした。例えば「バナナ」を見せれば「バナナを示すキー」を示せますが、「バナナを示すキー」を見せても「バナナ」を指し示すことはできなかったのです。これは、具体的な事象から抽象的な記号への変換は可能でも、抽象的な記号から具体的なイメージへと逆変換することには、より高度な知能、特に想像力が必要であることを示唆しています。

「言語」の本質:双方向の変換能力

言語能力とは、実像と記号、具体と抽象といった異なる次元を自由に行き来しながら他者とコミュニケーションを図る能力です。抽象(記号)から具体(実像)へ、そして具体(実像)から抽象(記号)へという、双方向の変換が不可欠です。この双方向性の一方だけでは真の言語とは呼べないため、アイちゃんは多くのことを学んだものの、人間が持つような言語習得のレベルには達しなかったと言えます。

遺伝子レベルで人間に限りなく近くても、訓練だけで知能や知性の差を埋めることは極めて困難であるという現実を浮き彫りにしました。もちろん、動物がいっさいの言語機能を持たないわけではありません。群れに外敵が接近した際に警告音を発したり、遠方にいる仲間に咆哮で合図を送ったり、身体的な表現で威嚇したり、あるいは仲間意識や親愛を示す行動をとったりします。しかし、これらは人間の複雑な言語体系とは一線を画するものです。人間の脳が持つ抽象的な思考と双方向の言語処理能力こそが、「心」の複雑さと高度な知能の基盤を築いていると言えるでしょう。

参考文献

  • 津田一郎『脳から心が生まれる秘密』(幻冬舎)
  • 京都大学・京都精華大学マンガプロジェクト、石田葉月、瓜生夏貴(京都精華大学);前田拓人、中植由里子(京都大学)「京都大学霊長類研究所チンパンジー物語」『MANGA Kyoto University』京都大学広報センター、2008年