労働組合が「非正規社員」を仲間に入れたがらない深刻な理由


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● 政府が作った退職抑制の仕組みが 日本的雇用の原型となった

 1930年代になると、政府は戦争の遂行のため労働力を確保すること、すなわち国家総動員に向けて労使関係に介入する姿勢を取り始めた。1937年に施行された退職積立金及退職手当法がその典型例であった。

 また政府は健康保険に臨時工が加入できないことを問題視し、常用工への登用を企業に働きかけたことすらあった。1938年には産業報国連盟が結成され、同年には国家総動員法が施行、1940年に産業報国連盟は大日本産業報国会という組織になった。

 これらの一連の施策を立てるにあたり、官僚は、経営側が労働者を尊重しないことは封建的な考え方であり、科学的でないと考えていた。

 こうした考えの下、従業者雇入制限令や賃金統制令などの法令が制定されたが、それは年功賃金、家族手当、労働者の転職の抑制を目指すものであった。日本的雇用と親和的な仕組みが戦時下に導入されたのであった(注1)。

 (注1)Gordon, A.(1985). The evolution of labor relations in Japan: Heavy industry, 1853-1955. Harvard University Asia Center(二村一夫訳『日本労使関係史1853─2010』岩波書店、2012年)

 そして第二次大戦の敗戦が決定的な変化をもたらす。

● 終戦直後に盛り上がる労働組合運動 「工員と職員の団結」がテーマに

 戦後の日本を統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は労働組合を擁護、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法などの労働三法も相次いで制定された。

 終戦直後、労働組合運動は大きく盛り上がり、事実上、経営側から経営権も奪取するほどの勢いをみせた。

 そして労働組合の2大テーマは、「工員と職員の団結」「身分制度の廃止」に設定された。日本鋼管、石川島造船所などで、工員組合と職員組合は工職混合組合に一本化され、食堂や通用門の差別も撤廃された。

 1947年から1948年にかけて多くの企業で、工員・職員という名称は撤廃され、従業員という名称に統一された(注3)。

 こうしたブルーカラーとホワイトカラーが包摂された労働組合の成立、そしてその平等な取り扱いを目指した労働運動は世界的に日本だけで生じた現象といっても過言ではない。

 それにしても、なぜそうした現象が起こったのか。

 菅山真次(編集部注/経済学者。東北学院大学経営学部教授)は1947年8月の東京大学社会科学研究所の労働組合への実態調査を分析している。

 その分析によると、労働組合のほとんどは企業別に組織され、この時点で工職混合組合の比率は8割を超えている。また工員と職員を一本化する理由に関しては「労働者の本質には職員、労務者の差異は存在しない」「職員も工員も共に従業員であるから、従業員は組合員である」という回答が最も多かったという(注4)。

 (注2)同前書 Gordon(1985)

 (注3)前掲書 Gordon(1985)

 (注4)菅山真次(2011)『「就社」社会の誕生』名古屋大学出版会 p.191.



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