戦後、長い間語られることのなかった旧満州での悲劇、特に「性接待」事件に光を当てるドキュメンタリー映画「黒川の女たち」が公開された。岐阜県から旧満州吉林省に入植した黒川開拓団は、終戦直後の極限状況下で生き延びるため、村の未婚女性たちをソ連軍将校に差し出すという、想像を絶する選択を迫られた。本作は、この重い過去の証言者である女性たち、そして真実を後世に残そうとする遺族会の活動を丹念に追う。監督の松原文枝氏が、なぜ今このテーマを描く必要があったのか、その視点に迫る。
国策による開拓と敗戦後の悲劇
1942年、国策によって岐阜県黒川村の約600人が、中国東北部旧満州吉林省に分村として入植した。これは「五族協和」「王道楽土」というスローガンの下で行われた日本帝国主義による支配侵略の一環であり、多くの開拓団は中国人が開墾した土地や家を奪う形で居住した。しかし、1945年の敗戦を迎えると状況は一変する。頼りにしていた関東軍は民間人の保護を放棄して南へ逃走。丸腰で取り残された開拓団員は、現地住民やソ連軍の侵攻に直面し、略奪や暴行に苦しむこととなった。多くの場所で集団自決が多発する悲惨な状況に追い詰められていった。
生存のため、娘たちが差し出された「性接待」
極限状態に陥った黒川分村が下した決断は、村の生存のために未婚女性をソ連兵への「性接待」に差し出すというものだった。18歳以上の未婚女性15人が集められ、団の幹部から「(兵隊に行っている人の)嫁さんには頼めないから、お前たち娘が犠牲になってくれ」と懇願されたという。避難所のベニヤ板一枚で仕切られただけの劣悪な環境で、娘たちは銃で脅され横たわることを強いられた。「お母さん、お母さん、助けて」と泣き叫ぶ声に対し、別の娘が「がまんしな、がまんしな」と励まし合う、凄惨な光景が繰り広げられた。
帰国後の沈黙と犠牲者への誹謗中傷
敗戦から一年後の1946年、黒川開拓団の生存者451人はようやく帰国を果たした。しかし、この旧満州での出来事については、村内で固くかん口令が敷かれ、沈黙が強いられた。そして、村を救うために自らを犠牲にした女性たちを待ち受けていたのは、心無い誹謗中傷であった。うつされた性病の治療のために病院に通うことを陰でなじられ、村落での生活を続けることが困難になり、故郷を追われるように出ていくことを余儀なくされた女性もいた。この深い心の傷と社会的な排除は、彼女たちを長く苦しめることになった。
旧満州からの引揚げ者の様子。開拓団の厳しい道のりを物語る写真。
タブーを破った証言と映画の視点
「私はいっぺん死んだ人間です」──そう語り、長年のタブーを破って口を開いたのは、ひるがの高原の戦後開拓地に移住し、お見合いで結婚した佐藤ハルエさん(1925年生まれ)だった。ドキュメンタリー映画「黒川の女たち」の松原文枝監督のカメラは、佐藤さんをはじめとする女性たちの貴重な証言を丹念に記録する。しかし、それだけではなく、監督は親世代が犯した「事件」に対し、犠牲となった女性たちへ謝罪し、その真実を後世に伝えるべく「乙女の碑」の横に碑文を建てる活動に情熱を捧げた黒川分村遺族会(黒川開拓団の引揚者による戦後組織)の藤井宏之会長の取り組みも丁寧に追っている。
「乙女の碑」の隣に建てられた碑文。黒川分村遺族会による真実を伝えるための活動。
歴史を見つめ続けた監督の新たな視点
松原文枝監督は、報道ステーションのプロデューサー時代に、古舘伊知郎キャスターと共に渡独し、ワイマール憲法の「国家緊急権」がナチスの全権委任法に繋がった史実を検証。「緊急事態条項」の危うさを浮き彫りにした特集でギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞するなど、歴史から現代への教訓を映像化する手腕を持つ。本作は劇場映画としては「ハマのドン」に続く2作目となる。歴史の闇に埋もれがちだった個人の悲劇に光を当て、証言と向き合う人々の姿を通して、私たちに問いかける松原監督の新たな視点が、この映画には込められている。